諸葛孔明の奥さんはブスだった……そんな話を聞いたことはないでしょうか?
孔明の奥さんの名前について
孔明の奥さんは父親の姓を取って「黄夫人」(こうふじん)と呼ばれています。「黄月英」(こうげつえい)、または「黄婉貞」(こうえんてい)という名前で呼ばれることもありますが、正史三国志には彼女の名前が書かれていないので、後世の創作ではないかと考えられています。
孔明と黄夫人の出会い
彼女の父親は黄承彦(こうしょうげん)という荊州の名士でした。あるとき、孔明が嫁探しをしていると言う噂を聞きつけた黄承彦は孔明に、「赤毛で肌の黒い女だが、頭の出来は君と釣り合いがとれるほどだ」と、嫁の貰い手がなくて困っていた自分の娘を紹介しました。
孔明は黄承彦の申し出を受けてその娘と結婚しました。周囲の者達はそれを見て驚き、孔明を物笑いの種にしました。「孔明の嫁取りを見習うな。醜い嫁をもらうことになるぞ」、などと言う失礼極まりないことわざまで創られたと言われています。
しかし、孔明はそんな噂のことなどどこ吹く風、まったく気にすることはありませんでした。確かに黄夫人は見た目こそ美人ではなかったようですが、父親の言った通りの利発な女性で、内助の功で孔明を支えたと言います。
黄夫人は発明家?
黄夫人には発明家としての才能があったと言われています。『うどんを作る木偶人形』という、有名な逸話がありますあるとき、家に来客があり、孔明はうどんを作ってもてなそうと考えました。
ところが作りおきなどない筈のうどんがすぐ出てきたので、不思議に思った孔明が台所を覗いてみると、なんと木偶人形がうどんを作っていたというのです。
この『うどんを作る人形』以外にも、孔明が考案したとされている物資運搬用の手押し車『木牛』や『流馬』は、実は黄夫人が発明したものだった、という説もあります。
確かに非常に頭の良い女性であったということは分かりましたが、孔明が彼女を自分の嫁として迎えたのは、その才を評価した、という理由だけだったのでしょうか?
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なんで孔明は黄夫人と結婚したの?
実は、黄夫人の父、黄承彦の奥さんである蔡婦人(さいふじん)は、荊州の有力豪族であり荊州の刺史であった劉表(りゅうひょう)に仕えていた蔡瑁(さいぼう)の長女です。
そして蔡瑁の次女は劉表の後妻でした。つまり、黄承彦の娘を嫁にもらうということは、劉表とは義理の叔父・甥の関係になるということです。これは孔明にとって重要なことであったに違いありません。
諸葛孔明は荊州の出身ではありません。地元では名士としてその名を知られる孔明ですが、荊州の人間との縁は浅く、そのため、なかなか良い出仕先に巡りあうことはできませんでした。
地元の有力者である黄承彦の娘を嫁とし、更には劉表との縁を結ぶことは、単に奥さんを持つという以上の意味があったことは間違いありません。
そして、そのことは孔明だけでなく、彼を『三顧の礼』で迎えた劉備玄徳にとっても重要な意味を持つことになります。劉表や蔡瑁と義理の親類である孔明を軍師として迎えるということは、劉備にとっては後ろ盾を強くする目論見もあったのではないでしょうか?
残念ながら、その後劉表が没した後、その跡取り問題を巡って蔡瑁と対立した劉備は結局追い出されることになってしまいますが……。
黄夫人は何者?
『赤い髪と黒い肌』と言われることから、黄夫人には異民族だったのではないか、という説があります。彼女は黄承彦の本当の娘ではなく、西域から来た異民族の女性であり、黄承彦が養子にしたのではないかと言われています。また、彼女の発明の才能も異国から持ち込んだ知識があったからこそだ、という民間伝承もあるそうです。
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