項羽(こうう)ってどんな人?史上最強の孤独な戦術家 Part.1

2015年10月23日


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項羽とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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項羽と項梁、反秦連合軍の中核になる

項羽と項梁、反秦連合軍の中核になる

 

こうして、会稽郡を乗っ取った項梁と項羽は、8000名の精鋭を選抜して、秦を滅ぼす為に、長江を渡ります。

 

范増

 

項梁は武勇はありませんが、頭のキレる男で范増(はんぞう)という老軍師の助言を受けて陳勝のように自ら王になるような浅墓な真似をせず、かつての楚王であった懐王の子孫の熊心(ゆうしん)という人物を探し出し恭しく、かしづいて楚王に建て楚を復活させました。

 

どうして項梁は、楚を復活させたのか?

どうして項梁は、楚を復活させたのか?

 

「例え、残り三戸になろうと、秦を滅ぼすのは楚たるべし」

楚の項燕は、死の直前にそう言い残していました。三戸とは三家族の事で、とても少ない単位です、それでも楚は秦を滅ぼすという気概は、当時の秦を恨んでいる旧六国の人々にも伝わっていました。

 

項梁は、この言葉を上手く利用し、楚を復活させて秦を滅ぼす大義名分を鮮明にしたのです。逆に自分が王になった反乱軍の陳勝は仲間割れと秦の反撃ですっかりボロボロになり、まもなく滅んでいます。

 

こうして、懐王を立てた項梁には、かつての六国の貴族や武将が次々に集まっていき、大勢力になっていきます。まさに項梁と范増の筋書き通り、反秦の旗は陳勝から項梁と項羽に移ったのです。

 

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項羽の敬愛する叔父 項梁が戦死

韓信将軍

 

反秦連合軍には、猛将黥布(げいふ)や、龍且(りゅうしょ)、鐘離昧(しょうりまい)、韓信(かんしん)、そして、項羽の宿敵になる劉邦(りゅうほう)などの多くの英傑が集まりました。しかし、秦を討伐する直前、主力を率いる項梁は、秦の名将、章邯(しょうかん)を侮り油断から敗戦して戦死してしまいます。

 

親代わりだった項梁の死に項羽は血の涙を流して慟哭します。そして、報復として、かつて章邯が本拠地にしていたというだけの理由で定陶(ていとう)城の住民を皆殺しにしました。ここにも、項羽の残虐さが顔を出していますが、項羽の虐殺癖は、ここばかりではなく、激しく抵抗した城に対しては、反抗的であるとして皆殺し、逆に、すぐに落城した都市でも「兵士が弱く味方にしても役に立たない」として、虐殺してしまいました。

 

項羽、上官であった宋義(そうぎ)を殺し、全権を掌握

張良㈬ 鴻門の会編05 項羽

 

項梁の死後、反秦連合軍の実権は、かつて楚で高位についていた宋義という人物が握ります。宋義は、項羽と違い、沈着冷静で権謀術数に長けた人であり秦軍に攻められた趙の救援として、項羽達、楚の武将をまとめて出発します。

 

同じく、反秦の旗を掲げている趙を救う事に項羽は異論はありませんでしたが、宋義は実の所、趙を救うつもりはありませんでした。宋義の狙いは、趙と秦が力の限り戦い負けた側を攻めて滅ぼすというもので、その為に、だらだらと行軍していたのです。

 

空腹の三国志の兵士

 

それほどの兵糧の備えがない楚軍は安陽という地点で飢えてしまい、項羽は焦り何度となく、早く軍を進めるように宋義に直訴しますが宋義は黙殺します。元々、反秦連合軍は自分と項梁が建てたという自負が強い項羽は、独断で宋義を斬殺して自ら総大将に就任しました。

 

項羽は、秦の帝都、咸陽を滅ぼすべく怒涛の進軍を開始する

項羽

 

項羽は、総大将になるや秦の帝都、咸陽を落すべく進軍する事を決意します。この戦いで項羽は本隊の精鋭10万人を率い、別働隊として劉邦が弱兵1万人を率いて、陽動部隊として、同じく咸陽を目指しました。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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