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この記事の目次
項羽、怨敵、章邯を鉅鹿(きょろく)城で撃破する
項羽の本隊は、咸陽の手前で鉅鹿城に向かいます。ここは、陳余(ちんよ)という反秦連合軍の武将が籠城していましたが、それを章邯や王離(おうり)が率いる秦軍20万が取り囲み激しく攻めたてている真っ最中でした。章邯の率いる秦軍の士気は高く、陳余を救いにきた各国の援軍も、勢いを恐れて、遠くから城が攻められるのを眺めているだけです。
項羽は、ここで秦軍の補給部隊を執拗に攻撃して、秦を食糧不足にして、士気を低下させました。その上で、項羽の楚軍は、河を渡って鉅鹿城に上陸しますが、決戦を前にして項羽は、船と三日分の食糧を除く全ての食糧を焼き捨てます。
項羽「よいか!秦兵を倒し、鉅鹿を解放しなければ、我らは3日で飢える、もう戻る船もない、死にたくなければ、目の前の秦兵を皆殺せィ!!」
逃げ場を失いヤケクソになった楚兵は、飢えで士気が低下した秦兵に襲いかかります。この戦いで、楚兵は1人で10名の秦兵を相手にしたと言われ、秦では、猛将、王離が捕えられ、渉間(しょうかん)は自殺、蘇角(そかく)は戦死しました。
章邯は、支えきれずに包囲を解いて逃げますが、秦は援軍を出すどころか、章邯を処刑しようとしているという情報を得て絶望し、将兵の助命を引きかえに項羽に降伏しました。
ようやく咸陽に入城すると、すでに劉邦がいた・・
項羽は、こうして自軍より多い、20万の秦兵を捕虜にしますが、これから、咸陽に攻め込むのに秦兵を連れて行くのに煩わしさを感じ、また、秦兵にも反乱の空気があった事から、20万の秦兵を崖に追い込んで、すべて谷底に落して殺してしまいます。
こうして、血で血を洗う戦争を繰り返した項羽の本隊ですが、ようやく、咸陽に辿りついた項羽に衝撃の事実が伝えられます。別働隊の劉邦の軍は、項羽より先に咸陽を落して秦を滅ぼしていたのです。しかも、劉邦は自分が通った函谷関の関を閉ざして守備兵を置いていました。
項羽「おのれィ・・あの百姓め、もはや己が王になったつもりかあっ!」
キレた項羽は見境なく、味方の楚兵が守る函谷関を武力で突破してしまいます。劉邦は事態を知って怯え、とにかく平身低頭して謝り項羽の怒りを解きます。この時に項羽の軍師だった范増は、劉邦が咸陽で略奪も行わずに、大人しくしていた事から、民心を得て天下を狙う野望があると見抜きこれを殺すように項羽に進言しますが、劉邦の平身低頭ぶりに騙された項羽は劉邦を取るに足らないと侮り、つい許してしまったのです。
項羽はこのように感情にムラがあり、殺す必要もない人を無益に殺し、一方で殺さないといけないライバルを殺せませんでした。
項羽、懐王を追放し、自ら西楚の覇王を名乗る
項羽は、咸陽に入ると、劉邦が助命した秦の3世皇帝の子嬰(しえい)を殺し、栄華を極めた咸陽の都に火を放ち、略奪と暴行、殺人を兵に許しました。項羽にしてみれば、子供の頃に楚を滅ぼされた復讐でしたが、この残虐な所業で、秦の人々は激しく項羽を恨むに至ります。
項羽は、秦を滅ぼすと、それまで形の上では主君と崇めていた楚の懐王をあっさりと遠方に追放し、途中で殺してしまいました。さらに、自ら西楚の覇王を名乗ると、論功行賞を行い、秦討伐に手柄があった群雄達に領地を振り分けますが、これは不公平そのものでした。
当然、命懸けで働いた群雄は納得せず、領地に帰ると続々と離反し独立します。項羽は、これを軍を率いて叩き潰します、こうして反乱と鎮圧というイタチゴッコが続く事になります。
三国志ライターkawausoの独り言
項羽は、名門の将軍の家柄として生まれますが、やはり子供の頃から飽きっぽいという欠点があったようです。後年の項羽は、戦争に勝って戦略で負けるというパターンを繰り返しますがそれも、しっかり兵法を学んでいれば防げたかも知れません。
何より、叔父であり頭脳面で楚軍を引っ張った項梁の戦死が、項羽にとっては、相当なダメージになっているように思えます。せめて、秦を滅ぼす頃まで項梁が存命なら、項羽の悪名の幾つかはカウントされずにすんだでしょう。
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