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この記事の目次
項羽と項梁、反秦連合軍の中核になる
こうして、会稽郡を乗っ取った項梁と項羽は、8000名の精鋭を選抜して、秦を滅ぼす為に、長江を渡ります。
項梁は武勇はありませんが、頭のキレる男で范増(はんぞう)という老軍師の助言を受けて陳勝のように自ら王になるような浅墓な真似をせず、かつての楚王であった懐王の子孫の熊心(ゆうしん)という人物を探し出し恭しく、かしづいて楚王に建て楚を復活させました。
どうして項梁は、楚を復活させたのか?
「例え、残り三戸になろうと、秦を滅ぼすのは楚たるべし」
楚の項燕は、死の直前にそう言い残していました。三戸とは三家族の事で、とても少ない単位です、それでも楚は秦を滅ぼすという気概は、当時の秦を恨んでいる旧六国の人々にも伝わっていました。
項梁は、この言葉を上手く利用し、楚を復活させて秦を滅ぼす大義名分を鮮明にしたのです。逆に自分が王になった反乱軍の陳勝は仲間割れと秦の反撃ですっかりボロボロになり、まもなく滅んでいます。
こうして、懐王を立てた項梁には、かつての六国の貴族や武将が次々に集まっていき、大勢力になっていきます。まさに項梁と范増の筋書き通り、反秦の旗は陳勝から項梁と項羽に移ったのです。
項羽の敬愛する叔父 項梁が戦死
反秦連合軍には、猛将黥布(げいふ)や、龍且(りゅうしょ)、鐘離昧(しょうりまい)、韓信(かんしん)、そして、項羽の宿敵になる劉邦(りゅうほう)などの多くの英傑が集まりました。しかし、秦を討伐する直前、主力を率いる項梁は、秦の名将、章邯(しょうかん)を侮り油断から敗戦して戦死してしまいます。
親代わりだった項梁の死に項羽は血の涙を流して慟哭します。そして、報復として、かつて章邯が本拠地にしていたというだけの理由で定陶(ていとう)城の住民を皆殺しにしました。ここにも、項羽の残虐さが顔を出していますが、項羽の虐殺癖は、ここばかりではなく、激しく抵抗した城に対しては、反抗的であるとして皆殺し、逆に、すぐに落城した都市でも「兵士が弱く味方にしても役に立たない」として、虐殺してしまいました。
項羽、上官であった宋義(そうぎ)を殺し、全権を掌握
項梁の死後、反秦連合軍の実権は、かつて楚で高位についていた宋義という人物が握ります。宋義は、項羽と違い、沈着冷静で権謀術数に長けた人であり秦軍に攻められた趙の救援として、項羽達、楚の武将をまとめて出発します。
同じく、反秦の旗を掲げている趙を救う事に項羽は異論はありませんでしたが、宋義は実の所、趙を救うつもりはありませんでした。宋義の狙いは、趙と秦が力の限り戦い負けた側を攻めて滅ぼすというもので、その為に、だらだらと行軍していたのです。
それほどの兵糧の備えがない楚軍は安陽という地点で飢えてしまい、項羽は焦り何度となく、早く軍を進めるように宋義に直訴しますが宋義は黙殺します。元々、反秦連合軍は自分と項梁が建てたという自負が強い項羽は、独断で宋義を斬殺して自ら総大将に就任しました。
項羽は、秦の帝都、咸陽を滅ぼすべく怒涛の進軍を開始する
項羽は、総大将になるや秦の帝都、咸陽を落すべく進軍する事を決意します。この戦いで項羽は本隊の精鋭10万人を率い、別働隊として劉邦が弱兵1万人を率いて、陽動部隊として、同じく咸陽を目指しました。
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