三国志の英雄孫策(そんさく)は、南方の呉の地域を統一した後「小覇王」と呼ばれます。
この「小覇王」と呼ばれた所以は、小説三国志演義によると楚漢戦争時代、天下の覇権を争った「西楚覇王」項羽(こうう)の武略にあやかりつけたそうです。
項羽はめちゃくちゃ強く数々の伝説の戦いを繰り広げた人物です。今回は伝説化した戦いの数々を紹介していきます。
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この記事の目次
伝説の戦いその1・鉅鹿の戦い(きょろくのたたかい)
項羽の強さを語るには欠かせないのが鉅鹿の戦いです。
秦軍に包囲された趙の鉅鹿城を救出するため楚は上将軍宋義と項羽を援軍として派遣します。
しかし宋義は鉅鹿城の救援に向かうどころか新陽という町に駐屯します。
ビックリ仰天なのがこの新陽の地に46日間も無駄にとどまっていたのです。
何で新陽の地にとどまってたの?
なぜ新陽の地にとどまっていたのでしょうか。
宋義いわく「趙と秦を戦わせ疲れさせることで、楚に有利な状態を作るために留まっている。
また息子の宋襄(そうじょう)を斉に派遣しており、斉の援軍が来てから秦軍と戦うつもりである」と話しています。
この態度に業を煮やした項羽は宋義の首を跳ね飛ばし、斉へ向かっている宋襄を斬ります。
項羽は宋義を斬った後、諸将の前で「宋義は斉と密約を結び反乱を起こそうとしたので、私が楚王の命を受け宋義を斬った」と宣言し、
項羽は楚軍の総大将に就き、将軍である英布を先鋒として鉅鹿城へ向かわせます。
その後、項羽は諸将の前で驚きの行動を起こします。
3日分の食料だけを残し士気を高める項羽
なんと3日間分の食料だけを残し、それ以外はすべて焼き、調理に使う鍋や黄河を渡る船をすべて焼きます。
この光景を見て退路と食料が無くなった事を悟った諸将は意気消沈すると普通なら思います。
しかし項羽の決意を見て兵士と諸将は逆に士気を高め鉅鹿城へ向かいます。
秦軍は約30万の軍勢で鉅鹿城を包囲しており、包囲軍は鉅鹿城の周りに壁を作り、救援に来る軍勢に対しても防御は完璧な状態です。
鉄壁の防御を施した包囲軍に項羽軍が突撃を開始。
鉄壁の防御をぶち破ってきた楚軍に仰天した秦軍は大混乱です。
そのまま楚軍は秦軍に猛攻をかけて、ついに包囲していた秦軍の将軍王離を斬ります。
また他の将軍も倒して鉅鹿城救援を成功させます。
この時、項羽が率いていた軍勢は最低で5万程度といわれています。
一説には10万ともありますが、いずれにせよ秦軍よりも少ない兵力で秦軍を完膚なきまで叩いたこの鉅鹿の戦いは項羽の伝説化された戦いの一つです。
伝説の戦いその2・彭城攻略戦(ほうじょう こうりゃくせん)
伝説の戦いのその2は彭城攻略戦です。
この戦いは斉に遠征中の項羽軍の本拠地である彭城が劉邦(りゅうほう)軍に奪われた後、項羽が彭城を取り戻す戦いです。
劉邦軍は五王を従え、兵力は56万というとんでもない大軍で守備兵がほとんどいない彭城を陥落させます。
斉軍と戦っていた項羽はこの報告を聞き、髪の毛を逆立て怒髪天を衝くほど怒ります。
楚の将軍たちが止めるのを聞かずに、自ら精鋭3万騎を選んで、斉の地から彭城へまっしぐらに駆けていきます。
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