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悪い癖が出世を妨げる
その後も、曹洪は地味で目立たない仕事ばかりしていました。しかし、文句を言わずに曹操を支え続けていました。なぜ曹洪に華々しい仕事を与えないのでしょうか。私の憶測ですが、非常に悪い癖を持っていたからだと思います。そのため曹操は、曹洪の勲功は多く、非常に優秀な人材のですが、出世させませんでした。曹洪の出世を妨げた、悪い癖は酒癖です。
曹洪の出世を妨げた酒癖
漢中防衛戦の時もこの癖が出てしまいます。夏侯淵が守る漢中に劉備軍が侵攻してきました。曹洪は援軍として出陣し、張飛(ちょうひ)や馬超(ばちょう)などと激闘を繰り広げ、何とか撃退します。その夜、曹洪は諸将を集めて、大宴会を催します。歌姫を集めて踊らせて、みんなで酒をガバガバ飲んでおりました。日ごろ地味な仕事しかしていない曹洪は、久しぶりに華々しい戦功をあげて、嬉しかったのかもしれません。
楊阜(ようふ)は曹洪に対して苦言
この大宴会に苦言を呈した人物がおりました。その人物は楊阜(ようふ)と言います。魏の名臣陳羣(ちんぐん)に劣らない正義感の持ち主で、不正を極端に嫌う人物です。この時も楊阜は曹洪に激しく注意し、宴会場から出ていきます。ほろ酔い状態であった曹洪は我に返って楊阜に謝り、すぐに宴会を止めさせます。曹操は、曹洪の酒癖が良くないことを知っていたため、正義感の強い楊阜を曹洪に付けて、日頃の酒癖の悪い部分が出たら注意させるために付けたのではないでしょうか。もう一つ曹洪には悪い癖があります。
曹洪はかなりのドケチ
それは節約家ですが、ケチなのです。曹丕(そうひ)が若いとき、金を貸してくれと曹洪に頼みました。しかし、曹洪はきっぱりと断るのです。
曹丕は曹洪が金を貸してくれなかった事を根に持つ
曹丕が皇帝になった時、曹洪の食客が事件を起こし、処刑されます。曹洪にも罪がおよび、牢屋にぶち込まれてしましました。曹丕は曹洪が金を貸してくれなかった事を根に持ち、曹洪を処刑しようとします。群臣たちは必死に曹洪を助けようと曹丕に進言しますが、聞き入れられませんでした。曹丕の母親である、卞太后のとりなしで曹丕は処刑を諦めます。曹洪は処刑されませんでしたが、財産と爵位は没収されてしまいます。悪い癖は、人ならば一つや二つあると思います。曹洪の場合は、改めようとしなかった所が致命的な彼の傷となりました。自分の悪い癖を改めさえすれば、夏侯惇や曹仁のような有名な武将であってもおかしくはない人物だと思います
三国志ライター黒田廉の独り言
曹洪は曹叡(そうえい)の時代に、再び爵位と将軍の位を下賜されます。その後は大人しくしていたのか、事件を起こさず老後を過ごしたようです。二つの悪い癖さえ治せば、有名になっていたのに、そう思うと残念でなりません。しかし地味で目立たない働きを行っていた曹洪は紛れもなく魏の影の功労者であった事実は曲げようがありません。