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無人であった合肥城は大いに栄え移住者も次第に増え始める
他にも川が氾濫を起こさないように治水工事を行うなど数々の政策を実施します。そのおかげで、無人であった合肥城は大いに栄え、ほかの都市からも農民たちが移住してくる都市に変貌を遂げるのです。劉馥は将来、孫権が合肥城に攻めてくると予想したため、防御工事を行います。城壁の防御を厚くし、魚油(魚から作った油)や木材、石などを大量に備蓄し、籠城戦に備えていたそうです。無人の荒野であった合肥の地を一流の都市に生まれ変わらせた劉馥ですが、赤壁の戦いの前に彼は亡くなってしまいます。
第一次合肥城合戦
孫権は赤壁の戦いに勝利した直後、合肥城を攻略すべく出陣します。孫権軍は10万の軍勢を率いて合肥城を包囲します。合肥城にはかなり少ない人数しかこもっていなかったと思われ、武将も貧弱な奴しかいなかったと思われます。孫権は包囲後、直ぐに総攻撃をかけます。しかし、びくともせず、夜襲をかけようとしても、魚油が城外を照らしていたため、攻撃できませんでした。合肥城は住民と兵士が心を合わせて、合肥城を守り続け、孫権軍の攻撃を100日以上耐え続けます。
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曹操は合肥城に蒋済と張喜を援軍に出す
曹操は孫権軍が合肥城を包囲している報告を聞くと、すぐに蒋済と張喜を援軍に差し向けます。だが与えられた軍勢はたった1000人でした。しかし蒋済が機転を利かせて、孫権軍に歩兵と騎兵合わせて4万の援軍が来ると流言を広めます。孫権軍は曹操軍の援軍を恐れて、合肥城から退却します。孫権はその後も幾度となく合肥城に攻撃を仕掛けますが、結局攻略することはできませんでした。理由は合肥城が鉄壁化した点や張遼や満寵(まんちょう)などの曹操軍が誇る名将を常駐させたことなどが原因で、孫権は死ぬまで合肥を手に入れる事ができませんでした。
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三国志ライター黒田廉の独り言
劉馥が以外のほかの誰かが、合肥を他の文官が治めていたら、孫権軍に合肥城は落とされ、曹操軍はかなり厳しい状態になっていたかもしれません。そのことを考えると合肥を鉄壁の城に生まれ変わらせた劉馥は地方行政官の鏡と言っても過言ではありません。
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