漢(かん)は前漢(ぜんかん)と後漢(ごかん)に分かれているのを皆さんご存知ですか。
前漢は高祖・劉邦(りゅうほう)が天下を統一して皇帝となってから約200年程度継続します。
その後、王莽(おうもう)の「新」が15年程度続いて、
光武帝・劉秀が立てた後漢王朝が再び約200年続きます。
その後は皆さんが知っている、黄巾の乱がおき、群雄割拠の時代になります。
今回は三国志の時代である、後漢王朝の始祖・光武帝・劉秀のお話しを
「Part.1」(青年期~昆陽戦まで)・「Part.2」(華北転戦期から後漢王朝を立てるまで)
「Part.3」(劉秀が取り決めた政策と逸話)の三本に分けて紹介します。
ではこれから後漢王朝を立てた劉秀のお話を始めます。
今回は青年期~天下分け目の戦い昆陽戦までを描いていきます。
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この記事の目次
慎重で静かな青年・劉秀
姓は劉、字は文叔、名は秀です。
今後は劉秀(りゅうしゅう)で書いていきます。
彼の家は、皇族の末裔ですが、あまり裕福な家ではありませんでした。
性格は非常に慎重で、自分の田畑を一生懸命耕す、まじめな人と家族や村の人々から思われていました。
劉秀は平凡な青年期を送っていたわけですが、夢がありました。
それは執金吾(服がかっこよく当時のあこがれの官職)になり、
陰麗華(劉秀の地元南陽では評判の美少女)を妻にする事です。
現在の青年男子が、大企業に勤めて、カワイイ人を奥さんにしたい、
この程度の些細な夢を持って青年期を過ごしていた劉秀でした。
王莽が新しい王朝「新」を建国し劉秀の人生も大きく変わる
こんな平凡な青年が、突如戦乱に巻き込まれます。
漢の皇帝が亡くなり、王莽(おうもう)が新しい王朝である「新」を建国します。
王莽の政策は、民の生活を圧迫し、混乱を極めます。
そんな中、兄劉縯(リュウエン)が地元である南陽で挙兵し、劉秀も兄の陣営に参陣します。
劉秀は貧乏であったため、馬ではなくあるものに乗って参陣したそうです。
ここではじめての三国志クイズ‼
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はじめての三国志クイズ
劉秀は一体何に乗って兄劉縯の元へ駆けつけたのでしょう。以下の三択からお答えください。
1虎
2牛
3犬
さぁーお答えください。
正解は2番です。
当たったあなた。
今日からあなたも歴史マニアですねぇ。
劉秀は貧乏なため、馬を買うこと出来なかった
劉秀は貧乏であるため、馬を買う事が出来ず、農耕用の牛に乗って兄の元へ馳せ参じます。
兄劉縯の性格は「剛毅で、義侠を好んだ」そうです。
リーダーとしての素質を持った人でありました。
しかし地元ではあんまり評判が良くなく、彼が挙兵した時は、あまり兵が集まりませんでした。
劉秀が「慎重な性格」であると南陽の人々が知っていたため、
彼が兄の元へ馳せ参じると、彼を慕って多くの兵士が集まり始めました。
劉縯率いる南陽軍は、本家の劉玄(劉縯や劉秀は分家)や
緑林軍など多数の軍勢と連合し、各地で政府軍と戦い勝利を重ねていきます。
勝利を重ねていた連合軍の幹部は、新たに皇帝を擁立しようと会議を開きます。
この会議で実績のある劉縯を皇帝にしては、と言う意見もありましたが、
多数の兵力を持ち、発言権のある緑林軍系の武将達は、劉縯のような有能な人材を皇帝にすると、
連合軍内の勢力が弱体化する可能性があるとして、
「本家の劉玄を皇帝にするべしと」と強く意見を述べます。
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