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この記事の目次
天変地異で王は解雇される?ローマの政治体制
其王無有常人,皆簡立賢者。國中災異及風雨不時,輒廢而更立,受放者甘黜不怨。
また、甘英は、ローマの政治体制についても知識を得ていたもようです。上の漢文の意訳は、下の通りです。
「(ローマ)の王は決まった血筋の人間ではない、みんなで話し合い賢者を立てる国中で、天変地異が起きたりした場合には、王は首にされたりする。しかし、首にされた王は、それを恨まない」
甘英には理解しがたかっただろう、共和制の概念
甘英が得たこのローマの政治体制に関する知識は、帝制に移行する前の共和制のローマの知識で、甘英の時代にはローマは帝制になり原則的には世襲に近くなっています。
それはそうとして、天に選ばれた皇帝が世界を支配する中華の常識の中で生まれた甘英には、天変地異で首にされたり、市民に選ばれるローマの王は、どのように映ったのでしょうか?
恐らく、かなり理解し難かったと思うのですが・・
甘英は、ローマにどこまで肉薄したのか?
では、班超の命でシルクロードを西に向かった甘英は、どこまでローマに迫っていたのでしょうか?それも、後漢書の記述を参照しますと・・・
和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度。
「後漢の和帝の9年、西暦97年、都護(階級)班超により大秦(ローマ)に使わされた甘英は、條支(現シリアらしい)に至り、大海を臨む場所に到達する」
これを世界地図で確認するとシリアの西にある地中海になります。或いは、パルティア(現イランの北に存在した騎馬民族の国)の南にあったアラビア海かも知れません。仮に地中海だとすると、もうローマ帝国は間近に迫っています。それ、もう一歩だ甘英!!!!
甘英、後一歩という所で、ローマ行きを断念その意外な理由は・・
しかし、もう一歩でローマという所で、甘英は突如として、ローマ行きを断念して、漢に帰還してしまうのです。その残念な理由としては、以下のような理由が考えられています。
一、安息国の船乗りが航海には、長くて3年かかると嘘を教えた。
本来ローマに入るにはシリアを経由する陸路もあるのですが、甘英を案内した安息国(パルティア)の船乗りは、ローマには海路でしかいけない上に長いと3年の航海になると嘘を教えたので、余りの航海の長さにビビった甘英はローマ行きを断念した。
二、内陸出身の甘英は、海に恐怖心があったので航海を恐れた。
そもそも、甘英自体が内陸の出身で海を知らなかったようで、その証拠に、甘英は「海水は塩辛く飲めない」という記録も残しています。こんな記録は、海を知っている人は当たり前過ぎて書くわけもありません。いざ、ローマと意気込んだものの果てがない海路に怯え、結果として、中途半端に目的を断念してしまったのかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
どうして、パルティアの船乗りが甘英に嘘を教えたのかと言うと、ローマと漢の交易品を仲介して、利益を得ているパルティアがローマと漢の直接取引を嫌ったからであると言われています。直接の国交はついに開かれなかったローマと漢ですが、シルクロードと中継貿易者のパルティア人の手を経て、東西の文化と文物は交流しました。
それにより、三国志の後漢末期には西域趣味が流行し、曹操(そうそう)はワインを飲んだり曹丕(そうひ)はブドウを食べて詔を出したり呂布(りょふ)はハンバーガーを食べたりと、文化のミックスが発生してゆくのです。
しかし、甘英が勇気を出して、船を出し、或いは陸路でローマに到達していたら、中国と西洋の歴史が一変に変わるような大変化が起きたでしょうね・・本日も三国志の話題をご馳走様でした。