前回「曹操編」と題し、陳宮の青年期から曹操(そうそう)の元で仕えていた頃をご紹介しました。今回は曹操の元を離れて、呂布(りょふ)に仕えた陳宮を取り上げていきたいと思います。
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天下無双の武を持つ呂布を兗州の盟主として迎え入れる
曹操は父親の敵である徐州の陶謙(とうけん)討伐の兵を二度にわたって行います。曹操は一度で徐州を攻略できなかったので、翌年再び大軍を率いて徐州討伐へ向けて出陣します。
陳宮は曹操が徐州討伐へ向かうと、陳留太守である張邈(ちょうばく)や弟である張超(ちょうちょう)などを反乱に加担させた後、呂布を兗州へ招き入れ曹操に対して、反旗を翻します。当時兗州の城は約80あるとされ、この反乱に77城が反乱に加担します。
陳宮は敵対した三城の内の一つである東阿城攻略に向かいます。しかし、東阿城を守備していた程昱(ていいく)は東阿城付近を流れる河の渡しを破壊します。陳宮は河を渡れず、渡河地点を修復するため、行軍が遅れてしまいます。
この間に程昱は東阿城の防備を厚くします。陳宮は渡河地点を修復し、東阿城を攻撃しますが、防御が固く、守備兵の士気が高い事から、攻略には時間がかかると判断し、濮陽へ撤退します。その後、曹操が徐州から帰還し、すぐさま呂布と陳宮に奪われた兗州を奪還するため、呂布の居城濮陽へ向けて出陣します。
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兗州決戦1
陳宮は濮陽に戻った後、濮陽城の防備を固め、兵糧を大量に運び込み、曹操軍来襲に備えます。その後曹操軍が濮陽城を包囲し、猛攻を加えます。しかし曹操軍は陳宮が知略の限りを用いて、防備を固めた濮陽城を中々陥落させることはできません。この戦いは100日以上にわたって攻防戦が繰り広げられますが、曹操軍は、濮陽城を陥落させる事はできませんでした。
この攻防戦の最中、イナゴが大量に発生したため、両軍は戦いどころではなく、曹操軍は撤退します。呂布軍は追撃する事はありませんでした。
兗州決戦2
翌年、曹操と呂布の激しい戦いが再び始まります。曹操は濮陽を攻略することをやめ、兗州の反乱軍の諸城を攻略する作戦に変更します。曹操は兗州の諸城を救援しに呂布が来ると予測し、兗州の諸城を攻略するときは必ず付近に伏兵をおいて、呂布が援軍に来てもすぐさま迎撃できるようにします。
呂布は手に入れた兗州の城を黙って曹操に奪還させるわけにも行かず、出陣します。曹操は兗州各地の城を攻略し、濮陽から援軍に出てきた呂布軍の将軍たちを撃破していきます。
陳宮は呂布の軍勢に加わらず、濮陽の守備を固めておりましたが、呂布の軍勢が、曹操軍の伏兵に遭い、敗れ続けている状態を見て、彼は軍勢を率いて呂布に合流します。陳宮は呂布と合流し、すぐさま軍議を開くよう求めます。呂布は軍議を開き、陳宮の意見を求めます。
陳宮の献策を受け入れる呂布
陳宮は「曹操は屯営にいます。そこで東緡県(とうびんけん)まで進出し、曹操が次にどのような動きをするのかを伺うのがいいと思います」と提案します。呂布はこの献策を受け入れ、東緡県に向けて出陣します。
陳宮は呂布と共に東緡県に着くとすぐさま偵察隊を出し、曹操陣営を伺わせます。偵察隊の報告によると城内の守備兵は1000人足らずで、残りの兵は麦を狩りに離れた場所へ移動しており、城内には曹操の姿も見られたと報告を受けます。
陳宮はすぐに呂布の元へ行き「今こそ好機です。すぐに城内に攻撃を仕掛けましょう」と献策します。
呂布はこの献策を採用し、すぐさま出陣します。呂布は城が見える所まで来ると、あたりの地形を警戒し、攻撃を行わず退却します。陳宮は呂布の不可解な行動にいらだちを覚え「なぜ攻めないのです。今こそ最大の好機ですよ」と詰問します。
すると呂布は「この地は伏兵を置くのに最適だ。そのため一日様子を見て、明日攻撃を行う」と言い、東緡県に戻っていきます。陳宮は呂布のこの言葉を聞いてどう思ったのでしょうか。
曹操を討つ最大の好機を棒に振った呂布を罵りたかったに違いありません。呂布軍は翌日攻撃を行いますが、前日呂布軍を見かけた曹操は麦を狩りに行った兵士を呼び戻し、伏兵を設置して、万全の迎撃態勢が整った状態でした。
そのため呂布軍は、曹操軍の伏兵に遭いコテンパンにやられてしまいます。本拠地であった濮陽は曹操軍に奪取されてしまい、陳宮と呂布は、兗州から去り、徐州へと向かいます。
下邳城の戦い
陳宮と呂布は、徐州の劉備(りゅうび)の元へ身を寄せます。二人は劉備が袁術討伐に出陣した際、徐州を乗っ取り、劉備を追い出すことに成功します。その後曹操が徐州へ大軍を率いて進行してきます。陳宮は曹操軍が徐州の彭城まで侵攻してきたと知らせを受けると、呂布に「彭城で曹操軍を迎え討つべきです。」と進言します。しかし呂布は「下邳で曹操軍を迎え撃つ」と反対します。
曹操軍は激しい抵抗を受ける事無く、徐州の州都・下邳城に攻め込んできます。呂布は下邳に攻め込んできた曹操軍を迎撃するため出陣しますが、あっけなく敗れ、下邳城に戻ってきます。陳宮はこの状況を打開すべく色々と呂布に献策しますが、彼は何一つ陳宮が献策した、策を採用する事はありませんでした。
その後曹操軍の水攻めにより、城を守る守備兵の士気は大いに低下し、呂布軍の武将であった魏続や侯成らが寝返り、陳宮と呂布を捕えて、降伏します。
陳宮の最後
陳宮は曹操の面前へ引き出されます。
曹操は陳宮に対して「あんたは、どうしてこのような場所にいるのだ」と問いかけます。
陳宮は「こいつが、我の策を取り上げなかったから、こうなっているのだ。もし我の策を取り上げて実践していればこんなことに、なってはいないであろう」と答えます。さらに曹操は「母親と娘を助けてほしいか」と尋ねます。すると陳宮は曹操を睨み付け「天下をこれから治めていく人が、人の親や娘を殺したりはしないのだ。我の母親や娘の生き死にはあなたにあり、我にはない」と答えます。
曹操はその後も陳宮に問いかけようとします。しかし陳宮が曹操を睨み付けて「早く我を殺せ。殺して軍の規律をただすべきだ」と大声で叫び、処刑場へと向かっていきます。曹操は彼を止める事は出来ず、ただ後姿を見送るだけであったそうです。曹操は何とか陳宮を助け再び活用したかったのでしょう。陳宮は敵となりましたが、彼の才能を愛した曹操らしさが出ていた一面であったと思います。
三国志ライター黒田廉の独り言
陳宮と呂布はかなり仲が悪く、陳宮が提案した策はほとんど取り上げられることはありませんでした。その理由としては叩き上げの武将である呂布の嫉妬ではないでしょうか。陳宮は官職についてはいなくても地元で有名な才子でありました。呂布は、武で立身してきた武将であり、腕力に関しては誰にも負けないですが、地元で有名な人ではありませんでした。そのため有名人である陳宮に対して、快く思っていなかったので、陳宮が提案した策を取り上げなかったのではないかと私は思います。