来年の大河ドラマは真田幸村を題材にした「真田丸」が放映されます。
今回ご紹介するのは来年の大河ドラマの主人公である真田幸村と魏の名将張遼(ちょうりょう)の類似点を3つ紹介します。
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この記事の目次
鬼神のごとき力を発揮し、敵から恐れられる
魏の張遼は第二次合肥の戦いで大活躍します。
張遼はこの戦いの時、二度に渡って孫権を追い詰めます。
孫権は命からがら張遼から逃れ、孫権は張遼を大いに恐れます。
孫権はその後合肥に出陣した際、合肥を調査していた調査員から「張遼が病かかっております。」と報告を受けます。
孫権は「張遼が病にかかって弱っているとしても、油断するな。張遼と戦うときは慎重に戦え」と将軍達に注意を促すほど彼を怖がっていたそうです。
真田幸村も大阪夏の陣と冬の陣で大活躍
さて真田幸村も大阪夏の陣と冬の陣で大いに活躍し、敵を恐怖の底へ叩きこみます。
大阪冬の陣では、来年の大河ドラマのタイトルになっている「真田丸」(城の弱点部分を補った砦)を築城し、大阪城に侵攻してくる徳川軍を大いに破ります。
徳川家康は幸村が作った「真田丸」の攻撃による被害の大きさを伝え聞き、敵の防御力と迎撃力に恐れ、退却を命じたそうです。
また大阪夏の陣では、真田幸村が作り上げた精鋭騎馬隊である「真田の赤備え」による突撃を敢行し、家康本陣に攻め入ります。
この時家康は、真田の突撃が本陣に攻め込んできた事を知り、家康が青年期から使っていた大事な旗は打ち倒され、家康は自らの死を覚悟したそうです。
魏の名将・張遼と日本一の兵・真田幸村は共に敵から恐れられた点が名将同士の第一の類似点です。
後世から絶大な人気を得ている
魏の武将の中で一番誰が好きですかと聞かれれば、真っ先に名が挙がるのが張遼だそうです。
ある三国志の人気ランキングによると彼の名前が一番に上がったそうです。
その理由としては軍事に対しての冷静沈着な対応と好機と見れば思い切った判断を下して攻め込む豪胆さが好まれたそうです。
はじめての三国志でも張遼は人気の上位にいる武将です。
真田幸村も負けてはいません。
彼は江戸時代に発刊された「真田三代記」が最初の真田ブームを巻き起こしたそうです。
当時発売されたこの本は幸村の父真田昌幸と幸村、幸村の嫡男幸昌が主人公で、強大な勢力を持つ徳川家康を相手に戦う姿に、江戸時代の市民たちは大興奮しながら読んだそうです。
こうして江戸時代から連綿と続いてきた幸村人気が、某ゲームで幸村をキャラクター化した事で一気に人気は加速し、今では若い世代からも人気を得ているそうです。後世まで人気を残した点が名将二人の類似点その2です。
そして次が最後になります。
合戦でとんでもない強さを発揮する二人
張遼は10万の軍勢を率いて合肥に侵攻してきた孫権軍に対して、わずか800人で突撃します。
孫権軍は敵が奇襲してくると思っておらず、張遼軍が攻め込んでくると大混乱に陥ります。
張遼は軍の戦闘に立って数十人の孫権軍を殺しながら、敵の本陣目指して突撃していきます。
張遼はこの突撃で、孫権軍の将軍を二人討ち取りますが、孫権を見つける事はできませんでした。
そのため退却しようとしますが、多数の孫権軍に囲まれてしまいます。
しかし張遼は一切怯むことなく包囲網に突撃を行います。
この一行の凄まじい強さに孫権軍の兵士は圧倒され、張遼軍の行く手を阻むことができません。
そしてついに張遼は敵の重囲を突破して城に帰還します。
その後孫権軍は合肥を攻撃しますが、敵の守備が固い事から退却します。
張遼は孫権軍が退却した事を聞くとすぐさま追撃を開始します。
孫権軍は孫権自らしんがりを行い、諸将や兵士達の退却作業を見守っていました。
そこへ少数の人数で自らの本陣へ奇襲をかけてきた張遼が、見えてくるのです。
孫権はしんがりを凌統や甘寧などに任せ、自らはすぐに退却し、命からがら退却に成功します。
しかし、しんがりを行った凌統は配下をほとんど討ち取られ、彼自身も大きな傷を負いますが、河に飛び込み何とか退却に成功したそうです。
張遼の鬼神のごとき活躍から、合肥付近の子供が泣き止まなくて困った時は、「遼来来」(張遼が来たよ)と子供に言うとぴたりと泣き止んだそうです。
このように少数で敵陣を撃破する活躍を見せた魏の名将・張遼です。
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真田幸村の活躍も張遼に引けをとらない
真田幸村の活躍も張遼に負けていません。
幸村は大坂夏の陣で3000人を率いて、徳川軍と対峙します。
徳川軍10部隊以上を真田の軍勢の前に展開し、攻撃を開始します。
真田軍は徳川軍の攻撃が開始されると、目の前の徳川陣に向けて、突撃を敢行します。
幸村率いる「赤備え」隊の攻撃は激しく、松平忠直の隊は(家康の孫)15000人で迎撃に出ましたが、幸村の突撃によって陣形は乱れ、兵士は大混乱に陥ってしまい、幸村の軍勢を通してしまうのです。
その後10部隊以上をたった3000の軍勢で次々に突破し、敵の大将である徳川家康の本陣に辿り着きます。
幸村は本陣に辿り着くと家康の首を求めて、大いに暴れまわります。
家康は幸村の攻撃に、恐れて自らの命を絶とうと覚悟します。
しかし側近らが真田の攻撃から家康を守り、何とか真田の突撃から身を守る事に成功します。
徳川軍は一時大混乱になりますが、部隊の態勢を立て直し、家康の本陣を救援するために幸村の赤備え隊に猛攻を加えます。
幸村の赤備えは奮闘しますが、連戦による疲労により、次第に数を減らしていきます。
幸村も奮戦しますが、敵の兵力の多さに圧倒され、家康本陣から退却を余儀なくされました。
その後松平忠直の鉄砲頭(鉄砲隊の隊長)に打ち取られます。
こうして幸村は討ち取られますが、幸村は敵の諸将から褒め称えられ、後世にその名を残していったのです。
張遼と幸村二人は共に大軍勢の中に少数で突撃した豪胆さは名将としての類似点として挙げられるでしょう。
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三国志ライター黒田廉の独り言
張遼と幸村の名将の類似点を今回紹介させていただきました。
このように二人を比べてみると二人の類似点が明らかになりますね。
今後も名将同士の類似点を紹介していければ幸いに存じます。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪
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