『星落秋風五丈原』と言えば…
三国志ファンならこの七文字を見ただけで、何処の話か、誰の話か、何の事を言っているのかピンとくる事でしょう。
そうです!蜀の諸葛亮が最期の力を振り絞り、中原を制すべく五丈原で司馬懿と対峙する…最後のあたりですね。
三国志には物語を紡いできた幾多の英雄達がいましたが、秋風が吹く五丈原で、最後の巨星がついに落ちてしまいます。
三国志演義など、多くの三国志のストーリーは諸葛亮の没後は急速に精彩を欠き、あっという間に終わってしまいます。
当然ながら歴史自体は晋国が成立し、休むことなく続いていくのですが…
それだけ諸葛亮の死は三国志の中でも大きな意味を持つものでした。
この記事の目次
三国志演義の七言絶句から生まれた
『星落秋風五丈原』という、三国志ファンの心を抉るフレーズは元々 は『三国志演義』の第三十八回 「定三分隆中決策」の中で
身未升騰思退步
功成應憶去時言
只因先主丁寧後
星落秋風五丈原
という七言絶句で登場します。
諸葛亮は中原を蜀漢の手に取り戻すという念願も果たせぬまま、命がつきようとしています。
脳裏によぎるのは先帝からの御恩と、蜀のこれからの事を心配するばかり。
流れ星が秋風吹く五丈原に落ち、ついに諸葛亮は息を引き取りました…。ああ、哀しや!
というシーンなのですよね。後世の詩人がそう詠んだ、という事になってます。
これより、諸葛亮の最期を語るフレーズとして『星落秋風五丈原』は後世の三国志作品に脈々と受け継がれていきました。
祁山悲秋の風吹けて、陣雲暗し五丈原
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この諸葛亮の生き様に心を打たれた後世の多くの詩人達が、諸葛亮を讃える詩歌や、五丈原での諸葛亮を描いた詩歌を残しています。
中でも日本人に広く知られたのは土井晩翠による『天地有情』という詩集の中の、『星落秋風五丈原』という叙情詩でしょう。
ここで一遍をご紹介です。
『星落秋風五丈原』
(ほしおつしゅうふうごじょうげん 又は せいらくしゅうふうごじょうげん)
祁山悲秋の 風更(ふ)けて
陣雲暗し 五丈原
零露(れいろ)の文(あや)は 繁(しげ)くして
草枯れ馬は 肥ゆれども
蜀軍の旗 光無く
鼓角(こかく)の音も 今しづか。
丞相病 あつかりき。
(訳)
五丈原の祁山に吹く秋風は、嘆くように吹き荒んでいる。
蜀軍の陣には不吉な暗雲が立ち込めている。
秋の夜明けは草葉に露が玉を為し
陣中の戦備は抜かりないが
我が蜀軍の旗は弱々しく垂れ下がっているのだ。。
戦を鼓舞する鼓の音も、角笛の音も今は鳴りを潜めている。
丞相の病がかなり重い為であろうか。
…という、五丈原で諸葛亮が没するまでを詠んだ詩です。
以下、七章349行にも及ぶ長い叙情詩なのですが…
本当に、素敵過ぎるのです!!!!
何だかもう余命幾ばくも無い諸葛亮の様子に、蜀軍全体がどよ〜んと暗くなり、五丈原にも秋風が吹くようになって寂しくなってる様子がありありと感じられます!悲痛な馬の嘶きや、冷たい秋風が五丈原の草木を揺らす音さえ聞こえそうです。
とても長い叙情詩なのですが、是非ご一読をお勧めしたい作品であります。
土井晩翠先生素晴らしい!
三国志が好きだった土井晩翠(どい ばんすい)
この『星落秋風五丈原』の作者である土井晩翠は、ご存知『荒城の月』の作詞者でもあります。
土井晩翠は宮城県出身で、1871年(明治4年)に生まれた日本の詩人であり、英文学者でもありました。
その作品は男性的な漢詩調の詩風で、同時期に活躍していた島崎藤村が女性的な詩風であるのと対照的で、並んで「藤晩時代」と称されていました。
英文学者でもあるのでホメロスやカーライル、バイロン等の翻訳も手がけています。
土井晩翠は小学生の頃、父親の影響で『水滸伝』や『三国志』『十八史略』に親しんでいたといいます。
多くの高名な詩人がそうであったように、この頃から土井晩翠も諸葛亮の最期に涙したのかもしれませんね。
『星落秋風五丈原』は大流行!
土井晩翠にとって『天地有情』は初の叙情詩集であったのですが、同時に代表作ともなりました。
中でも『星落秋風五丈原』は明治の世でも大流行!
出版前は「こんなの売れないねー」と出版自体を断られ、周りの働きかけで何とか出版した『天地有情』だったのですが、出版社も本人も予想しなかったほどの大流行となったのです。
原稿料も高くは無かったので、本人も印税などとは夢にも思って無かったそうです。
この大ヒットで一躍、土井晩翠は詩人としての名を広めました。
特に『星落秋風五丈原』は多くの人に愛され、面白いエピソードまで残っています。
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