諸葛誕(しょかつたん)は司馬家に反乱を起こす際、
息子の諸葛靚(しょかつせい)と部下を呉に送った事で援軍を得ます。
その後諸葛誕は司馬家に討伐され、討ち死にします。
諸葛靚はそのまま呉に仕える事になります。
今回はあまり知られていない諸葛誕の息子・諸葛靚を紹介していきたいと思います。
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この記事の目次
呉へ向かう諸葛靚
諸葛誕は司馬家の専横を憎み、反乱を起こします。
彼は自らの兵力だけでは不足を感じ呉に援軍を求めます。
呉に信用してもらうため、息子の諸葛靚と部下一人を呉に派遣する事にします。
これが親子の今生の別れとなってしまうのです。
呉は孫綝(そんちん)に大軍を預け、諸葛誕救援に向かわせます。
親子の別れ
呉は孫綝を大将に諸葛誕に援軍を送りますが、魏軍に連敗。
ついに孫綝は魏軍への攻撃を止め、呉へ帰還します。
諸葛誕は寿春城に籠城しながら呉の援軍が魏の包囲陣を破ってくれることを祈っていましたが、
呉の軍勢が帰途についたことを知ると愕然とします。
そんな中、味方の軍勢が次々に司馬家に降っていきます。
魏の大将である司馬昭は寿春城から投降者が増加している状況を見て、猛攻を開始。
諸葛誕は数百人を率いて魏の包囲網から脱出しようと試みますが捕縛後、処刑されます。
諸葛靚は父を死に追いやった司馬家を終生許さないと心の中で固い決意をします。
呉のラストエンペラー孫晧から右将軍に任命される
諸葛靚はその後呉に仕え、コツコツと実績を積み重ねていきます。
呉の三代目の皇帝である孫休(そんきゅう)が亡くなると、
孫晧(そんこう)が皇帝の位を継ぎます。
彼は皇帝になる前は優秀な人物でありました。
しかし皇帝になると次第に残虐性を増し、
次々と優秀な家臣や気に入らない側室などを殺していきます。
しかし諸葛靚はなぜか残虐非道な皇帝である孫晧に実績を認められ、右将軍に任命されます。
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孫晧の自尊心を持ち上げる
諸葛靚はある日孫晧から「君の字は仲思(ちゅうし)だが、いったい何を思って生きているのだ」
とくだらない質問を受けます。
しかし彼はまじめに考え、孫晧に対して「私は家にいる時は孝を思い、
あなたに仕えている時は忠誠を思い、友達に対しては信用をもって接しています。
これを毎日考えて生きていますよ」と答えます。
孫晧はこの答えに満足し、諸葛靚の肩を叩き大笑いで去っていきます。
孫晧の従弟を賊から救出
魏の領土永安で賊が蜂起し、孫晧の従弟孫謙を脅迫。
孫謙はビビッて賊軍に加わる事になります。
賊軍は孫謙を加えた事で一万程の軍勢になり呉の都市を荒らしまわります。
諸葛靚は軍勢を率いて賊軍を見事撃破。彼は孫晧の従弟である孫謙を救出し、保護します。
しかし孫謙は孫晧に疑われ、親子ともども殺害されてしまいます。
地元に里帰り
晋は呉を滅亡させるため、6方面同時侵攻作戦を開始。
呉の諸将は必死に抵抗しますが、晋の大軍に抗えず、次々に敗れていきます。
諸葛靚も必死に防戦を行いますが、敗北してしまいます。
孫晧は晋軍に抗えない事を知ると、降伏します。
ここに呉は滅亡し、三国時代の終焉を迎える事になります。
諸葛靚は孫晧が降伏したと知ると、軍勢を解散させ、地元に帰ります。
司馬炎から晋に仕えないかと誘われるも断固拒否
諸葛靚は地元に帰ると、ゆったりと静穏な日々を暮らしておりました。
彼は平穏な日々を生活していました。
晋の皇帝・司馬炎(しばえん)は旧友であり有能な諸葛靚を大司馬に任命し、
晋に仕えるように使者を送ります。
しかし諸葛靚は父諸葛誕を司馬家に殺された恨みを忘れておらず、出仕を拒否。
その後も何回か諸葛靚の家に司馬炎の使者が来ますが、断固として断り続けます。
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司馬炎は一策を講じ、諸葛靚と会う
司馬炎は旧友である諸葛靚を何とか一目見ようと彼の姉に
「諸葛靚に会いたいんだが、何とかしてくれないか」と頼みます。
彼女は「わかりました。靚をわが家に呼びます。
その時陛下もわが家に来てくれれば靚に会えると思いますよ」と伝えます。
司馬炎は彼女の提案を受け入れ、当日は諸葛靚の姉の家に行きます。
諸葛靚はそうとは知らず姉からの呼び出しに応じて、彼女の内に出向きます。
諸葛靚は姉の家に着くと驚きます。
なんと司馬炎が居るのです。彼はムスッとした顔で酒を飲んでおりました。
泣きながら司馬炎に訴える
司馬炎は酒宴がたけなわになると諸葛靚に
「君は若い頃私と仲が良かったことを覚えているかい」と言います。
諸葛靚はこの言葉を聞くとゆっくりと頷き「私は『炭を飲んで声を潰し、
漆を塗って皮膚病患者を装った晋(春秋戦国時代)の豫讓(よじょう)のように敵を討つ』
こともできず陛下の顔を見る事になりました。」
と父の敵を討てなかった無念を涙きながら司馬炎に語り掛けます。
司馬炎は諸葛靚の涙を見てバツが悪くなり、何も言わずにその場を去っていきます。
そして諸葛靚は死ぬまで司馬炎が建国した晋に仕えず、生涯を終える事になります。
三国志ライター黒田廉の独り言
三国志好きでも中々知らない諸葛誕の息子を紹介しました。
父諸葛誕はあまりぱっとしない生涯でしたが、
息子は意地でも父の敵である司馬家に仕えなかった硬骨漢として
中々爽やかな生涯を歴史に残しています。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~
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