はじさん臨終図巻の郭嘉(かくか)の回でも触れましたが、三国志の時代、北方に比較して南方は伝染病の多い地域として恐れられていました。特に荊州は伝染病が多かったようで、曹操(そうそう)の赤壁の敗戦の原因とも言われています、では、その伝染病とは一体、何だったのでしょうか?
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後漢の建安年間、五度も発生した伝染病
西暦196年から220年までを中国では建安年間と言いますが、その間、中国では記録に残る限り、五回も伝染病が猛威を奮った事が記録されています。最初の流行が建安4年である西暦196年、以後、矢継ぎ早に199年、208年、217年、219年と伝染病が続いています。
伝染病は北方ではなく南方に多かった
さて、この伝染病ですが華北ではなく、華南地方に多かったようです。196年~206年の長期にわたり断続的に続いた流行は長沙地方で起り伝染病に感染して死亡した人間が3分の2に上り、またその中の70%は「傷寒」により亡くなったと長沙太守、張機(ちょうき)の記録にあります。また、西暦208年、曹操が呉を併合しようとした時にも伝染病が大流行。官吏士卒の大半が戦死してしまい、曹操は伝染病を恐れ船を焼き払い退却してしまっています。
建安の七子の過半数を殺した217年の伝染病
さて、建安年間に中国を席巻した伝染病は、西暦217年、遂に当時の魏の首都、鄴(ぎょう)に到達します。この時の大流行は、曹操が張遼(ちょうりょう)や司馬朗(しばろう)、夏候惇(かこうとん)、臧覇(ぞうは)などを伴い呉を討伐した濡須口(じゅすこう)の戦いが契機と考えられ、帰国した兵士を通して感染が拡大し、建安の七子と名高い名文家、王粲(おうさん)、陳琳(ちんりん)、徐幹(じょかん)、応瑒(おうとう)が病死しました。
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建安年間に流行した伝染病の正体とは?
建安年間だけで5回も流行して、多くの人命を奪った、この伝染病の正体は一体なんだったのでしょう。謎を解く言葉の一つは、長沙太守、張機の傷寒という言葉に表れています。この傷寒という言葉は「寒さによって(身を)傷(やぶ)る」という意味です。具体的には、腸チフスなどの伝染病がこれに当たるとされています。
腸チフスの症状とは?
腸チフスは最初、風邪によく似た症状が発生します、まずは発熱して、悪寒がとまらなくなり、高熱でガタガタ震えます。この寒がるという様子が傷寒の語源だと思われます。症状が進むと関節痛、腹痛、食欲不振、咽頭炎、空咳、そして鼻血という症状が現れ、さらに症状が進むと、40度近い高熱を出し、血便、下痢、便秘を起し腹部から胸にピンク色のバラの花びらのような発疹が出現します。最終的には、腸出血からの腸穿孔、肺炎、意識障害や難聴、肝機能障害を引き起こし重症なら死に至ります。
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