この記事の目次
彭越は部下に促され、ついに独立を果たします。
彼はどの勢力にも属さず、時勢をよく見極めるため、常に一匹狼でした。
そして漢と楚の二国の戦いになり、
この二つの国の最終決戦の時に、彭越と韓信(かんしん)この二人が
歴史の流れを変化させるキーマンとなります。
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魏の宰相へ
彭越は斉の味方をし、楚の将軍簫公角の軍勢を打ち破った後、
劉邦軍と合流します。
彭越は劉邦軍と共に楚軍と戦い、ついに楚の首都彭城を陥落させます。
劉邦は彭城を陥落させると魏の王族である魏豹を王に立て、
彭越を魏の宰相に任命します。
彭城の敗北
劉邦軍や諸侯の軍が油断している隙に、項羽の精鋭部隊が彭城に猛攻を
かけ奪い返します。
劉邦は命からがら項羽軍の追撃をかわします。
彭越も項羽軍の追撃をかわし、敗残兵を吸収して山野に隠れます。
彭越の真骨頂ゲリラ戦を展開
項羽は劉邦軍と対決するため、本拠地彭城から去ります。
彭越は項羽が去った事を知ると、精鋭部隊を率いて魏の領地を
奪還すべく暴れまわります。
楚の軍勢が出てくると、本格的に戦う事をせず、軽く戦うとすぐに逃げて、
山野に隠れます。
時には項羽軍の兵糧輸送部隊を壊滅させ、魏の領地を奪還します。
この戦いは後にゲリラ戦と言われます。
項羽は彭越討伐の為、自ら出陣しますが、彭越は項羽が来るとすぐに
退却するため、壊滅させることはできませんでした。
そして項羽が居なくなると彭越は再度現れ、食料を奪ったり、城を攻めたりします。
この戦法を取った彭越のおかげで、劉邦は項羽の圧力に苦しめられながらも
生き残る事が出来ます。
彭越のゲリラ戦が功を奏し、漢楚和睦
彭越が楚軍から兵糧を奪い続けてきた効果が現れます。
広武山に対陣していた項羽は、味方の兵糧の少なさを憂い、
劉邦と和睦を結びます。
こうして漢と楚の長きにわたる戦いに終止符が打たれる事になります。
時代のカギを握った元盗賊
漢と楚が和睦した事で天下は平和になると思われていた矢先、
劉邦が項羽との和睦を破棄します。
その後劉邦軍は項羽軍に追撃をかけますが、固陵(こりょう)の地で
敗北。
この時彭越の所に劉邦の使者が来て「漢王は項羽との盟約を破棄し、
追撃しています。彭越殿も軍を率いて固陵へ来ていただきたい」との
要請がありました。
しかし彭越は動きませんでした。
彭越はなぜ動かなかったのか考えてみた
彭越はなぜ漢王劉邦の依頼を無視したのでしょうか。
それは自らの価値が分かっていたからだと私は思います。
漢と楚が争っている今だからこそ、自分は動かず、決着が着いた後
どちらかに属せばよいと考えていたんだろうと思います。
また劉邦が「援軍に来てくれたら、褒美を与える」と
彭越に提示しなかったことも原因だと思います。
韓信と彭越が動き、天下は定まる
劉邦は韓信と彭越が要請に応えなかった原因を軍師である張良(ちょうりょう)に相談します。
張良は「王よ。韓信と彭越に莫大な恩賞と領地を約束しないと彼らは
参陣しないでしょう」と進言。
劉邦は張良の意見に従い、再度参陣の要請を行います。
彭越は再び劉邦の使者がやってきたので会うと使者は
「梁王(りょうおう=魏の首都である梁を王の名前にした呼び名)とし、莫大な
恩賞と領地を約束するため、参陣していただきたい」と述べます。
彭越はこの約束を聞き、ついに軍を動かします。
その後韓信の軍勢も参戦し、ついに項羽は敗れ、鳥江の地で亡くなります。
こうして漢が天下統一を果たし、彭越は梁王になります。
漁師から王の位まで上り詰める
劉邦は天下統一後、彭越に梁王の位を与えられ、莫大な恩賞と共に
広大な領地を手にします。
こうして元漁師の身から王の位まで登り詰めた彭越は栄華を極め、
得意の絶頂におりました。
しかしこの栄華を極めた絶頂の時間は長くは続きませんでした。
劉邦の命令を無視
漢は天下統一を果たしますが、安定した政権ではありませんでした。
常にどこかで反乱が起こっており、劉邦や諸侯らは討伐に赴く忙しい
日々を送っておりました。
そんな中、漢の北方に位置する代の地で反乱が起きます。
劉邦はすぐさま鎮圧すべく諸将に参集するよう命令を出します。
彭越の所にも参集の命令が下ります。
しかし彭越は遠い代(だい)の地へ行くのを嫌がり、病と称して劉邦の命令に背き、
代わりの将軍に兵を預け、参陣させます。
劉邦は一応彭越の理由を受け付けます。
その後代の反乱を平定した劉邦は、彭越に来るよう命令を出します。
劉邦の元へ出向き、王の位を奪われ平民に
彭越は劉邦からの要請があると、漢の首都である長安へ出向こうとします。
彼は準備を始めると配下の将軍が「王よ。今長安に出向いたら、殺されます。
どうせ殺されるなら反乱を起こした方がいいと思います。」と進言します。
すると彭越は「病だったんだから仕方ないだろう。大丈夫なんとかなる」と
言って長安に向かいます。
この時彭越配下の将軍が進言した内容が劉邦の元へ届きます。
この言葉を知った劉邦は激怒します。
長安に着き劉邦と会見した彭越は「貴様。参陣しないばかりか。反乱を起こそうと
していたのか。」と怒り、王の位を奪い平民に落とし、流刑地である蜀への
移住が決められます。
呂雉の讒言により、彭越死す
彭越は領地へ戻る事が許されず、蜀へ向かいます。
蜀に向かう途中皇后である呂雉(りょち)と出会います。
彭越は呂雉に「皇后様。なんとか故郷である昌邑(しょうゆう)
に住めるよう陛下にお願いしてくれないか。」と頼みます。
すると呂雉はすんなり彼の願いを受け入れ、共に洛陽へ
向かいます。
洛陽に着いた呂雉は劉邦に会い「遠い蜀の地へ彭越を行かせて、
現地で反乱を起こされたら大変です。今彭越をこの洛陽に連れてきましたから、
彼を殺して禍を絶っておいた方がいいでしょう。」と告げます。
しかし劉邦は彼女の言葉に頷きませんでした。
そこで彼女は彼が再度謀反を起こそうとしている証拠を自ら作り、
彼を裁判にかけます。
彭越は裁判に出ると必死に抗弁しますが、受け入れられず、彼の一族は皆
殺されてしまします。
また彼の死体はバラバラに刻まれ、塩漬けにされて諸侯に配られたそうです。
諸侯は彭越の死体を配られた事で呂雉を大いに恐れる事になります。
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三国志ライター黒田廉の独り言
彭越は漁師の身から王の位にまで駆け上った出世人です。
王になった後栄華を極めて、満足のいく人生を送っていたはずです。
なぜ、代で反乱が起きた時、劉邦の命令を無視するような事を
したのでしょうか。
魏から代までは結構な距離がありますが、劉邦の命令を否定するほどの事なので
しょうか。
もしかしたら劉邦の命令を無視したのではなく、本当に病にかかっていたため、
自ら軍を率いて参戦する事が出来なかったのではないかと私は思います。
「今回の楚漢戦争時代のお話はこれでおしまい。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう
それじゃまたにゃ~」