孔明にパクリ容疑!?天下三分の計を最初に考えた蒯徹(かいつう)

2016年2月23日


 

天下三分の計

 

天下三分の計は、三国志の蜀の軍師・諸葛亮孔明が考えて劉備(りゅうび)に献策した

と思っている方が多いと思います。

実は孔明が自ら考えて天下三分の計を考えたわけではないのです。

彼より前の時代の人間が天下三分の計を考えたのを孔明がパクったんです

今回は天下三分の計を初めて考えた蒯徹(かいてつ)を紹介していきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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はじめての献策

蒯徹(かいてつ)

 

蒯徹(かいてつ)は河北の范陽出身の人です。

陳勝は各地を平定する為、諸将を各地に派遣します。

趙にも陳勝の部下である武臣(ぶしん)が兵を率いて趙国内の平定に派遣されます。

武臣は趙平定中に陳余(ちんよ)と趙耳(ちょうじ)を配下に加え、趙国内にある秦の城へ攻撃をかけます。

しかし武臣は城攻めに失敗し、范陽へ侵攻します。

范陽の弁士として名を挙げていた蒯徹は、武臣の陣営に赴きます。

蒯徹は武臣と会うと「范陽の県令はあなたに降伏したいのだが、降伏した後の

民衆の報復を恐れて降伏できないのです。ですから県令に印綬を授けて、

今の権力を維持させれば、報復されずに済み彼も降伏するでしょう。」

とアドバイスします。

武臣は蒯徹のアドバイスを受け入れ、范陽の県令に印綬を渡し、現在の権力の維持を

確立させてやると、すぐに降伏します。

その後武臣は趙の城を次々に手に入れ、ついに趙の平定を完了させます。

 



武臣からの誘いを断り、歴史の闇に隠れる

 

武臣は蒯徹の献策により、范陽を手に入れます。

彼は蒯徹に「わが臣下にならないか」と誘います。

しかし蒯徹は首を振り、范陽から去ります。

こうして蒯徹は歴史の表舞台からしばらくの間、消えます。

 

 

歴史の表舞台に再び登場

韓信 PR

 

楚漢の天下を決める争いは激化していきます。

そんな中蒯徹は再び歴史の表舞台に出現します。

彼は漢の大将軍となった韓信(かんしん)の元で食客として仕えておりました。

韓信は趙を平定し、斉と(えん)の平定に向かいます。

 

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蒯徹の進言で酈食其が死す

 

韓信はまず燕に降伏の使者を出し、降伏を促します。

燕王であった臧茶(ぞうと)は韓信の降伏の使者の言葉に従い降伏。

韓信は燕が降伏した事を確認した後、斉へ侵攻を開始します。

しかし斉は劉邦(りゅうほう)の使者酈食其(れきいき)の説得により、漢と同盟を締結。

韓信は酈食其の使者と会い、斉の降伏を知ります。

蒯徹は韓信に「殿。酈食其は舌先三寸で斉の70余城を陥落させました。

将軍の功績はあの儒者(酈食其)の舌先三寸に負けてしまいますぞ。

また殿は斉国侵攻を中止する命令を大王からいただいてはおりますまい。

ならばこのまま斉を攻めないのは大王の命令に背くことになりますぞ」

と進言します。

韓信は蒯徹の進言を聞き、斉へ向けて進軍を開始し、斉の国境防衛の要である

歴城を陥落させ、斉国内へ侵攻します。

斉王田広は韓信の軍勢が侵攻してきたことに激怒し、酈食其を釜茹で(かまゆで)に

して彼を殺した後、即墨(そくぼく)へ退去します。

 

楚の猛将竜且との戦い

 

韓信は斉の首都臨淄を手に入れるここを本拠に斉平定に乗り出そうとします。

そんな中偵察者が駆け込んで韓信に

「大将軍。斉王田広(でんこう)の要請で楚の援軍が即墨(そくぼく)に入城

しました。楚の援軍を率いているのは猛将竜且(りゅうしょ)です。」と

報告します。

韓信は少し驚いたふりをしますが、全軍を引き連れ即墨へ向けて出陣。

韓信は即墨城付近に流れる濰水(いすい)を氾濫させ、楚軍を押し流し、

残った楚軍を軽々と破っていきます。

この戦いで楚軍の猛将竜且と斉王田広を処断します。

韓信はこうして濰水の戦いに勝利し、臨淄へ帰還します。

 

楚漢戦争

 

斉の平定と斉王

 

韓信は劉且との決戦に勝利すると属将の曹参(そうしん)を遼東半島へ派遣。

灌嬰に斉の南を平定するように命令を出します。

その後韓信は軍事行動を起こさず、臨淄で滞留します。

この時蒯徹は韓信に「殿。漢は楚と天下の覇権をめぐって激闘を繰り広げて

おります。今なら斉の民衆を安心させるため、斉王になりたいと王に申し上げれば

すぐに将軍は王となる事が出来るでしょう」と進言します。

韓信は蒯徹の進言を聞き劉邦へ斉王になりたいとの要望書を出します。

劉邦は斉王になりたいと言ってきた韓信に激怒しますが、結局彼の意見を聞き

いれ斉王に任命します。

 

天下三分の計

 

蒯徹は自らの献策で韓信が斉王になった事に大いに満足します。

新たな斉王が立ってから数日後、蒯徹は韓信に再度献策します。

「王よ。現在漢と楚が天下の覇権を取るため日夜激闘を繰り広げております。

また現在斉を平定し終わり、斉王としてあなた様は君臨しております。

今こそ漢と袂を分かち、独立すべき時です」と進言します。

すると韓信は大いに悩み、悩んだ末

「先生(蒯徹)は何をおっしゃっているのです。

私がこうして斉王になれたのは、漢王のおかげでなれたのです。

ですから私は漢王から独立する事はできません。」と答えます。

こうして蒯徹の一世一代の策は破れます。

その後彼は狂人のふりをして韓信の元を離れます。

 

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高祖劉邦との会見

劉邦 ヤンキー

 

天下は漢が統一すると蒯徹は斉の相国となった曹参(そうしん)に仕え、

治国の策をいくつか献策しますが、彼の元を去ります。

その後彼は捕まり、劉邦の元へ連れてかれます。

劉邦は彼を見ると「すぐにこいつを釜湯で(かまゆで)にせよ」と

側近に命じます。

蒯徹は「無罪の罪で殺されるのは非常に無念だ」と呟きます。

劉邦は「何をもって無罪だと思うのだ」と問い返します。

すると蒯徹は「当時あなたのようになりたいと思っていた人はこの中華に

どれくらいいたでしょう。あなたはこのように望んでいた人全てを殺すつもりですか」と答えます。

劉邦はこの返答が気に入り、彼を解放します。

その後蒯徹の行方を知るものはいませんが、彼は何処かひっそりとした場所で

春秋戦国時代に活躍した遊説の士が残している策謀を自ら論じた

書物「雋永(しゅんえい)」を残したとされております。

 

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三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

初代天下三分の計を唱えた蒯徹の策を韓信が実行していれば、

彼の名前は歴史に深く名を残したこと思います。

しかしもしこの時韓信が独立した場合漢・・楚の国々は

どうなっていたのでしょうか。

私の私見を述べさせていただけば、戦乱は長引くが

結局劉邦が天下統一するのではないかと思われます。

劉邦が天下統一する原因としては人材が豊富である事です.

彼の陣営には簫何・張良・陳平、夏侯嬰、黥布など有能な

配下が揃っています。

しかし韓信には蒯徹以外めぼしい人材が見当たりません。

これではいくら天才的将軍であったとしても漢に勝つのは難しいと思われます。

皆さんはどう思いますか。

「今回の楚漢戦争時代のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう

それじゃまたにゃ~」

 

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呂布対項羽

 

 

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