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孔明とは違うのだよ!天才姜維の斜め上北伐とは?両者の徹底比較

2016年3月12日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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補給を重視し、危ない橋を渡らない孔明

兵糧を運ぶ兵士

 

蜀の桟道というように、漢中から秦嶺山脈を越えるには、行軍ももちろんですが、補給が非常な困難でした。補給部隊には、馬や牛を使いますが、それらは大事な労働力で蜀の農業生産力を低下させてしまいます。さらに、それらに牛馬に食べさせる飼料が馬鹿にならず、輸送部隊をさらに、大きくするという悪循環に陥ります。

 

木牛流馬

 

これを何とか、コンパクトにするために、孔明は、木牛(もくぎゅう)や流馬(りゅうば)というような、補給の為の車両を造って、兵士が自分の食糧は自分で持てるように工夫しています。

 

木牛流馬を使用する蜀兵士

 

さらに孔明は、補給が続かないと見るや、有利な戦況でも、あっさりと退却する程に補給を重視しました。また、孔明には、ボロ負けもありません。慎重な用兵は、なるだけ蜀の人民の被害を出さない点にありならばこそ、北伐の負担に蜀の人民も耐えられたのでしょう。

 

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現地調達だった姜維

官渡の戦い 騎馬兵

 

一方の姜維は、涼州の奥地に攻め入る時には、補給部隊は置き去りにしていたと言われています。その分、動きはかなり速かったでしょう。

 

では、補給はどうしていたのか?というと現地調達だったようです。姜維は、この涼州の人間で、しかも四名族の一つの出身でした。他所者と違い、縁故の部族は多く、食糧の調達が容易だった面はあるでしょう。ですが、決して豊かではない、涼州ですから大きな戦があると、補給が続かなくなるという事も多かったようです。

 

西暦254年、狄道の長の李簡(りかん)が蜀に降伏しました。姜維は、さらに進んで、襄武(じょうぶ)を包囲し、守備隊長の徐質(じょしつ)を斬り、河関(かかん)、狄道(てきどう)、臨洮(りんちょう)の三県を抜くという戦果を挙げますが、そのまま三県を占領するという事もなく、三県の民を根こそぎ引きつれて、帰還しています。

 

ここから、分かるのは、姜維の軍には、長期間の占領を行える食糧が無かったという事実なのです。師の孔明は拠点を抑える事を重視し、その為に、陳倉のような小城まで、無視する事なく包囲して落せず補給が続かなくなり撤退していますが、姜維は、補給を現地調達に頼るので、敵部隊撃破に主眼がありました。

 

しかし、魏は、各地の拠点から、兵力を出しあってカバーし姜維は、倒しても倒しても出現する魏兵に苦しめられる事になります。

 

司馬懿と名勝負を演じた孔明

司馬懿対孔明

 

孔明を司馬懿(しばい)最大のライバルというと反論する人がいます。

 

「司馬懿は、攻められている側だから防御してりゃいいの・・孔明に真面目に付き合う必要はないんだから、軍略では司馬懿が上って事でしょ?」

 

ですが、司馬懿は常に貝のように閉じこもる将軍ではありません。孔明が五丈原で死没しても、蜀の構えが堅い事を見て追撃を断念している程です。

 

通常、敵司令官の死の直後こそ、追撃の最大のチャンスですから、ここで、追撃に出れない事は、司馬懿には無念だったでしょう。

 

「孔明は天下の奇才」とは、自分と戦った相手を褒める事で、間接的に自分の寛大さを示そうというのではなく、軍事的才能と国力において、司馬懿に劣る孔明が、ここまで善戦した事を素直に褒めているように受け取れます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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