孔明とは違うのだよ!天才姜維の斜め上北伐とは?両者の徹底比較

2016年3月12日


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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郭淮と鄧艾に歯が立たなかった姜維

魏の旗をバックに戦争をする郭淮は魏の将軍

 

 

一方の姜維は、毎回、立ちはだかる、魏の鄧艾に勝てませんでした。北伐以前の、郭淮(かくわい)にも歯が立ちません。姜維を称える立場の三国志演義では、これではマズイと考えて、病死した郭淮を戦場に立たせ、姜維に馬上から矢を放つものの、姜維に矢を掴まれ、逆に射殺されています。

 

鄧艾

 

鄧艾は、その郭淮をも上回り軍事の才能では司馬懿も上回りそうな、大変な逸材で、姜維は、最後の最期まで勝つ事が出来ませんでした。ここは、孔明が司馬懿と五分の戦いをしているのと、大きく違います。

 

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死後も、万全の備えを残した孔明

仲の悪い魏延と楊儀

 

西暦234年、孔明は五丈原に没しますが、後任は蒋琬(しょうえん)に任され、魏延(ぎえん)楊儀(ようぎ)の間で、ゴタゴタがあったとはいえ、混乱を最小限に食い止めて退却する事が出来ました。

 

蒋琬(しょうえん)

 

これも、死の床にあった孔明が、死後の善後策を細々と指示し、幕僚の動揺を静めていたからでしょう。蒋琬は、偉大な孔明の後任の重圧を受けながらも、表面では平静で人選を非難する人がいても動揺もせず、怒りもせず、

 

「私は丞相には遠く及ばない、それ位知っておるよ」

 

と嘯くなどして、人心の動揺を鎮めました。蒋琬の死後は費禕が引き継ぎ、凡庸な劉禅の下でも蜀が乱れるというような事もありませんでした。

 

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蜀の滅亡に禍根を残した姜維

姜維

 

一方の姜維ですが、西暦256年、段谷(だんこく)で鄧艾の軍に大敗して、数万の兵力を失うという大損害を受けます。この敗戦は、身内を失った蜀の人民に激しく恨まれ、姜維も、孔明の例に習い自身の地位の降格を願い出ています。

 

王平は四龍将

 

そこまではいいのですが、この大損害で自身が北伐で率いる兵が不足した姜維は以前に魏延が構築し、蜀の四龍将王平(おうへい)が西暦244年に、魏の曹爽(そうそう)の10万の大軍を3万で撃退した、興勢の役で利用した、漢中盆地の要塞を解体してしまいます。

 

こうして、魏軍を盆地に入れないという方式から、盆地に誘いこんで各地の城から兵を出して攻撃するというやり方に改めたのです。

 

こうして、浮いた兵力は北伐軍に編入したわけですが、結果として、漢中の防衛ラインは弱体化し、西暦263年、鄧艾、鐘会の15万の蜀討伐軍にあっさり破られます。これは、姜維の最大のチョンボだと言えます。

 

姜維怨嗟の声

 

また、姜維は、その生涯の大半を戦場で過ごし、成都の事情に疎く成都に自分のシンパを送りこむという事も出来ませんでした。それは、次第に理解者を減らし、一人だけが孤立するという結果を招きよせてしまうのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

このように、孔明と姜維の北伐は、同じ北伐というタイトルでも、内容には、大きな違いが存在していました。やはり、孔明のプランには、苦しいが頑張って漢の天下を回復させようというスローガンがあり、それが蜀の人民を引っ張っていましたし、可能な限り、人民に負担を掛けないという姿勢も一貫していました。

 

一方の姜維は、孔明の遺志を継ぐという心持ちは立派ですが、なぜ、今、北伐?という根拠を示す力が弱く、それだけに、敗戦によって、一気に求心力が離れたと言えるでしょう。

 

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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