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郭淮と鄧艾に歯が立たなかった姜維
一方の姜維は、毎回、立ちはだかる、魏の鄧艾に勝てませんでした。北伐以前の、郭淮(かくわい)にも歯が立ちません。姜維を称える立場の三国志演義では、これではマズイと考えて、病死した郭淮を戦場に立たせ、姜維に馬上から矢を放つものの、姜維に矢を掴まれ、逆に射殺されています。
鄧艾は、その郭淮をも上回り軍事の才能では司馬懿も上回りそうな、大変な逸材で、姜維は、最後の最期まで勝つ事が出来ませんでした。ここは、孔明が司馬懿と五分の戦いをしているのと、大きく違います。
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死後も、万全の備えを残した孔明
西暦234年、孔明は五丈原に没しますが、後任は蒋琬(しょうえん)に任され、魏延(ぎえん)と楊儀(ようぎ)の間で、ゴタゴタがあったとはいえ、混乱を最小限に食い止めて退却する事が出来ました。
これも、死の床にあった孔明が、死後の善後策を細々と指示し、幕僚の動揺を静めていたからでしょう。蒋琬は、偉大な孔明の後任の重圧を受けながらも、表面では平静で人選を非難する人がいても動揺もせず、怒りもせず、
「私は丞相には遠く及ばない、それ位知っておるよ」
と嘯くなどして、人心の動揺を鎮めました。蒋琬の死後は費禕が引き継ぎ、凡庸な劉禅の下でも蜀が乱れるというような事もありませんでした。
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蜀の滅亡に禍根を残した姜維
一方の姜維ですが、西暦256年、段谷(だんこく)で鄧艾の軍に大敗して、数万の兵力を失うという大損害を受けます。この敗戦は、身内を失った蜀の人民に激しく恨まれ、姜維も、孔明の例に習い自身の地位の降格を願い出ています。
そこまではいいのですが、この大損害で自身が北伐で率いる兵が不足した姜維は以前に魏延が構築し、蜀の四龍将王平(おうへい)が西暦244年に、魏の曹爽(そうそう)の10万の大軍を3万で撃退した、興勢の役で利用した、漢中盆地の要塞を解体してしまいます。
こうして、魏軍を盆地に入れないという方式から、盆地に誘いこんで各地の城から兵を出して攻撃するというやり方に改めたのです。
こうして、浮いた兵力は北伐軍に編入したわけですが、結果として、漢中の防衛ラインは弱体化し、西暦263年、鄧艾、鐘会の15万の蜀討伐軍にあっさり破られます。これは、姜維の最大のチョンボだと言えます。
また、姜維は、その生涯の大半を戦場で過ごし、成都の事情に疎く成都に自分のシンパを送りこむという事も出来ませんでした。それは、次第に理解者を減らし、一人だけが孤立するという結果を招きよせてしまうのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
このように、孔明と姜維の北伐は、同じ北伐というタイトルでも、内容には、大きな違いが存在していました。やはり、孔明のプランには、苦しいが頑張って漢の天下を回復させようというスローガンがあり、それが蜀の人民を引っ張っていましたし、可能な限り、人民に負担を掛けないという姿勢も一貫していました。
一方の姜維は、孔明の遺志を継ぐという心持ちは立派ですが、なぜ、今、北伐?という根拠を示す力が弱く、それだけに、敗戦によって、一気に求心力が離れたと言えるでしょう。
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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