農業は生活の根本です、何故なら人間は食べないと生きていけないからです。かの毛沢東も「道路は喰えない」という名言を残していますが、自動車より、スマホより重要なのが食糧の確保であり、それは=農業の振興と切っても切れなかったのです。そこで今回は、三国志の時代の農業について、紹介したいと思います。
この記事の目次
華北と華南では、栽培する作物が違った
中国は広大であり、華北と華南では気候も違うので栽培している作物も別でした。華北は乾燥していて、水田には不向きだったので粟(あわ)とか黍(きび)、麦(むぎ)が栽培されます。特に粟は、火力が弱い三国志の時代の竈でも、短時間で火が通ったので、日常食として、身分の上下に関係なく、広く食べられました。一方の華南は、高温多湿で、長江など水に恵まれていましたので、早い時期から稲が栽培されていたのです。
分かりやすく言うと、華北出身の劉備(りゅうび)や曹操(そうそう)は、粟や小麦を食べ孫権(そんけん)は、華南なので、米を食べていたという事です。
当時の開墾の方法 耦耕(ぐうこう)
田畑というのは、毎年毎年、作物が取れるというわけではありません。一度、作物を取ると、土の栄養が殆ど失われるので、一年は休ませて土地の力を回復させないといけませんでした。しかし、一年、放置しておくと、一度耕した田畑の表面は、再び、堅くなってしまい、そのままでは作物を植える事は出来ません。そこで、土おこしと言って、田畑の土を掘り返してほぐす事になります。土を掘り起こす事で、土の中に新鮮な空気を送り込むと共に、たい肥などを加えて、土に栄養を与えて、作物がよく実るようにするのですが、その耕起は、非常に骨が折れる作業でした。そこで、考え出されたのが、二人一組で鋤を使い畑を耕す耦耕です。
鋤(すき)とは、どんな農具なのか?
耦耕に使用されるのは、鋤という道具です。形としては大きなスコップですが、スコップと違い、内側に凹みはなく土を溜めて掘りだす事は出来ません。先端は鉄で覆われていて、地面に突き刺し土を起す事に向いています。鋤には一本歯と、先が二股に分かれているタイプがあります。
耦耕のやり方とは、どんなもの?
耦耕は、大体、同じような背格好の人間二人で行います。二人が横並びになり、鋤を相手側にV字になるように突き刺し、お互いに掛け声をしながら、タイミング良く鋤を起していきます。たった、これだけの事なんですが、二人で土を起すので、力は半分で済む上に、掛け声などを掛けあう事で辛い作業も、勢いが付き、楽しく行えるというメリットがあったようです。
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耦耕は、牛に引かせる犂(すき)が発明されると消滅する
耦耕は、牛に犂をセットして、耕す方法が出現してから消滅します。牛に犂を曳かせる技術は、紀元前3000年代には出現しているようですが、一般的になったのは、紀元前2世紀から、1世紀の間のようで、その時代の墓の壁画には、牛に犂を曳かせているシーンが登場します。犂は、牛の肩に掛けて、長く引っ張り、短い沢山の歯がついた部分を地面に向けて使いますが、このままでは軽いので、鞭を持った、人間が、犂の上に乗り、牛に鞭を当てて走らせました。こうする事で、犂が深く地に食い込んで深い部分まで土を起せます。現在のトラクターは、牛がやっていた作業を機械でやっているだけで、その原理は、牛を使った犂耕作と同じです。
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三国志ライターkawausoの独り言
耦耕は、孔子(こうし)が諸国を遍歴していた時代、紀元前6世紀には、もうあったようで、長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)という農民二人が耦耕をして畑を耕していたそうです。牛が農耕の家畜として、飼われるようになり、牛耕が一般化しても、家畜として牛を持てない貧しい農民はいたでしょうから、三国志の時代でも、耦耕は残っていた事でしょう。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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