【袁家ファン必見】袁家はどうやって名門になったの?汝南袁氏の基礎を築いた袁安(えんあん)が超苦労人だった

2016年4月30日


 

袁家ヒストリー01 袁術 袁紹

 

三国志でも屈指の名家である、汝南袁氏(じょなん・えんし)ですが、

どんな家でもいきなり、名門であるという事はなく、そこまでには、

幾多の光と影のヒストリーがあります。

そこで、今回のはじさんは、袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)を生み出した

汝南袁家のヒストリーを追っていきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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汝南袁氏の祖は、袁安という人物

袁家ヒストリー02 袁安

 

汝南袁氏の基礎を築いたのは、袁安(えんあん)という人物です。

袁氏は、袁安の祖父の袁良(えんりょう)が儒学者で、

見出されて、前漢の末に成武県(山東省)の令にまで昇進しました。

 

つまり、袁家は庶民ではなく、ある程度の地位に昇れる、

豪族の家柄であったという事になります。

 



大雪の日に餓死寸前で寝ていて、出世のチャンスを掴む袁安

袁家ヒストリー03 袁安

 

袁安の父は、役人にならず、記録はありませんが、

袁安は、若いころから勉学に励んでいました。

 

そんな袁安の若い頃、彼の故郷が記録的な大雪に見舞われます。

それにより、作物は大ダメージを受け、その年は大凶作になりました。

餓死者も続出する大惨事の中、市中を巡回していた県令は、

大雪に埋もれたままの袁安の屋敷を発見します。

 

「もしや、餓死した人間がいるのでは・・」

 

県令が雪をかきわけて、家に入ると、

そこで袁安が絶食状態で寝ていました。

 

「どうして、街中に出て食糧を求めようとしなかった?」

県令が不思議に思って、尋ねると袁安は、

 

「市中は、わずかな食糧を奪い合う人であふれていましょう。

そこに加わり迷惑を掛けたくないのです」と答えます。

 

県令は、袁安の態度を賢者であると気に入り、考廉で推挙します。

こうして、思いがけず、袁安は役人になります。

 

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袁安、冤罪で捕まった人々を釈放し、帝の信頼を得る

罪人

 

袁安は、小さな県の令を歴任しますが、どこでも真面目に勤めて

実績を積み上げていきます。

そして、西暦71年には、明帝に反乱を起こして処断された、

、劉英(りゅうえい)が除かれた直後の楚郡に太守として派遣されます。

 

そこで、袁安は、劉英に連座したとされている人々を調べあげ、

数百名という無実な人間がいる事を知り、これらを釈放しました。

 

通常ならば、皇帝に媚びるために、無実の人間でも処断して、

自分の忠誠をひけらかしそうですが、儒学者としての教育を受けた

袁安は公明正大だったのです。

 

それを聞いた、明帝は、時局や欲に流されない見事な態度であると

賞賛して、袁安を中央に呼び出します。

 

こうして、洛陽都知事である、河南尹(かなんいん)になった袁安は、

厳しくも、寛容な態度で洛陽を治め、むやみに刑罰に訴えなかったので、

乱れていた洛陽の人心は整然としたそうです。

 

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袁安、ついに三公に昇り詰める

宦官集合 

 

袁安が河南尹である期間は10年に及びました。

西暦83年、袁安は九卿の一つである太僕(たいぼく)に昇進して、

高級官僚の仲間入りを果たします。

そして、次には、三公の司空、司徒を歴任したのです。

 

その後、88年、章帝が崩じて、幼い和帝が即位すると、

前漢同様に、外戚の竇氏(とうし)がのさばるようになります。

袁安は、しかし、竇氏に媚びず、それを弾劾するなどしたので、

竇氏に恨まれますが、清流派官僚のトップ袁安を殺すと、

返って反発が強まると考えた竇氏は、これを殺しませんでした。

 

やがて、袁安は病にかかり、朝廷の行く末を心配しながら病死します。

 

竇氏は打倒され、袁安は再評価される

袁紹が宦官を惨殺に行く

 

竇氏は、袁家を冷遇したので、袁安の息子達は、しばらく不遇でした。

ところが、和帝(わてい)が成長して竇氏を誅殺すると、

竇氏に媚びなかった袁安が再評価され、息子達も引き立てを受けるようになります。

 

ここで、浮上してきたのが、袁京(えんけい)と袁敞(えんしょう)という

袁安の二人の息子達です。

両者とも、袁安から儒教道徳を教えこまれた清流派の官僚でした。

袁京の家系からは、大尉に上った袁湯(えんとう)が登場し、

弟の袁敞も司空に昇っています。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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