ROUND3後世に名を刻んだ対決
前回の対決では戦場での戦功対決を行いました。
この戦いで見事陸遜を降し、立花道雪が勝利を収めます。
さて次の戦いは後世に名を刻んだ対決です。
先攻は立花道雪が務めます。
前回記事:【名将対決】雷神と恐れられた名将立花道雪VS呉の名将陸遜 Part.1
この記事の目次
後世に名を刻んだ対決【道雪編】
立花道雪は戦上手として九州地方では名将の名をほしいままにします。
彼の戦上手は九州地方だけに轟いていたわけではなく、
遠い甲斐の国にまで伝わります。
甲斐の国主である武田信玄は彼の名前を聞いて、召し抱えようとします。
しかし道雪は信玄の誘いを断わり、大友家に忠誠を尽くします。
彼は戦が強いだけではなく、とっても部下に優しい事で有名でした。
そんな彼にこんなエピソードが残っています。
手柄を立てていない家臣を励ます
道雪は手柄を挙げていない家臣を見かけると、
その家臣に「あなたが弱い部下ではない事は私が一番よく知っている。
今後も戦は続くが、討ち死にせず私を見守っていて貰いたい。
あなたが居るからこそ私は敵の中に突っ込んで行っても、頑張れるのだ。」と
家臣を励まします。
励まされた家臣は命を大事にしながらも、道雪と共に敵中に乗り込み、
手柄を挙げる事になります。
手柄を挙げ続けている家臣に対しては
道雪は手柄をバンバン挙げている家臣には、
他の家臣が居る前で「私の部下は非常に武勇に優れ、手柄を挙げている。
このような者が多いからこそ我ら立花の家は大いに栄えているのだ」と
褒め称えます。
道雪に褒められた部下は、大いに喜び、
次の戦でも勇気を奮って敵に立ち向かっていきます。
会津藩の教科書に載る
道雪の部下想いのエピソードは、ある藩の教科書に採用されます。
その藩は会津藩です。
会津藩の五代藩主である松平容頌(まつだいらかたのぶ)が編集した
『日新館童子訓(にっしんかんどうしくん)』という教科書に載っています。
会津藩の少年たちは、この教科書を読み、道雪が残したエピソードを読んで
学んでいたそうです。
彼の名前は幕末の時代まで語り継がれていく事になるのです。
後世に名を刻んだ対決【道雪編】終了
道雪は部下想いで戦上手な武将として、
彼が亡くなってから200年以上、語り継がれていく事になります。
さて呉の名将陸遜は道雪を超える事が出来るのでしょうか。
正史三国志で列伝を作られる
陸遜は正史三国志で諸葛孔明と共に陳寿から列伝を作ってもらった武将です。
陳寿が書いた三国志の呉の書物「呉書」では呉の臣下は列伝を立てられていません。
そんな中、呉の家臣の中で陸遜だけ列伝を立てたという事は
それだけ彼が活躍した人物であるという事の証左です。
陳寿から高評価を得る
陳寿は陸遜を「百戦錬磨の劉備を策に巧みに嵌めて、
夷陵の戦いで勝利を得た。
また「石亭の戦い」でも魏の将軍である曹休(そうきゅう)を策に嵌めて、大勝を得る。
この二つの大戦は陸遜の巧みな策略によって勝利を得ている事が、
彼を高く評価している所以である。
また陸遜は孫呉に忠誠を尽くして、亡くなる事になるのだが、
私は彼を社稷の臣と言うべき孫呉の名臣である。」と
陸遜を大いに褒め倒しています。
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陸遜を評価しない裴松之
正史三国志に「注解」を作った裴松之は陸遜を陳寿程高く評価しないばかりか、
彼をぼろくそに言います。
裴松之は「陸遜が魏の曹休を策に嵌めて大勝した「石亭の戦い」では、
近くに住む近隣住民が被害を受けている。
彼が起こした「石亭の戦い」はもう少しましな戦い方があったのではないかと
疑問に思っている。」と彼をまったく評価しませんでした。
賛否両論がある陸遜ですが、
間違えない事は正史「三国志」に彼の列伝が作られた事で、
その名は歴史に名を刻むことになり、後世に伝えられたのは事実です。
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ROUND3の結果は…
二人の後世に名を刻んだエピソードを紹介しました。
さて今回の勝負の行方は、どちらに軍配が上がったのでしょうか。
結果は……
立花道雪の勝利です。
おめでとうございます。
三国志ライター黒田廉の独り言
立花道雪が勝利したという事で道雪の紹介を少し行いたいと思います。
彼は立花山城の城主であった時、筑前岩屋城主高橋紹運と意気投合。
紹運と道雪は親子ほど年齢が離れておりましたが、
道雪は彼を盟友として付き合います。
道雪はかねてから後継者がいない事を残念に思っておりました。
子供入るのですが、娘でありました。
この娘を立花誾千代(たちばなぎんちよ)と言います。
彼女は男勝りで道雪も手が付けられないほどの人でした。
しかし道雪は男の子に自分の跡を継がせたいと思っておりました。
そんな中紹運の息子である統虎(むねとら)に目を付けます。
道雪は紹運に「統虎殿を養子として頂けないであろうか。」と尋ねます。
紹運は始め彼を高橋家の嫡子として跡を継がせるつもりでしたが、
道雪の度重なる願いに心を動かし、立花家の養子として送り出します。
道雪は統虎を厳しく躾ます。
そして道雪が亡くなると、高橋紹運の息子である統虎が道雪の跡を継ぎます。
こうして立花家の当主となった統虎は名を改め、
立花宗茂(たちばなむねしげ)として世に出る事になり、
道雪の薫陶は宗茂の中で生き、
戦国終盤の時代に宗茂の名を天下に轟かせていく事になります。
「今回の武将対決はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~。」