劉備は蜀を建国しますが志半ばで病にかかり、後の事を孔明に任せて亡くなります。
その後孔明が劉備の息子で蜀の二代目皇帝に就任した劉禅(りゅうぜん)を支えて、
魏との戦いを繰り広げていきますが、孔明も蜀の政治・軍事全てを
執り行わなければならい激務により亡くなってしまいます。
そして孔明の後を継いだ蒋琬(しょうえん)、費禕(ひい)らの活躍によって
蜀の国は安定していくことになりますが、
費禕の死後蜀は一気に転落していくことになり、
滅亡への道を突っ走っていくことになります。
蜀の滅亡する原因を作ったのは宦官である黄皓(こうこう)が蜀の政治を牛耳った事が原因で、
蜀が滅亡することになるのですが、
黄皓一人が原因で蜀は滅亡したのではないと知っていましたか。
今回は蜀の滅亡を原因を作った費禕の後継者である陳祇(ちんし)を
ご紹介していきたいと思います。
両親がいない
陳祇は非常に可哀想な幼少期を送っており、
彼が幼い時に彼を残して一家は全員なくなってしまいます。
そのため彼は蜀の太傅(たいふ)であった許靖(きょせい)に育てられていきます。
そして青年期を迎える博識でもって知られるようになり、選郎曹(せんろうそう)という官職に就任。
こうして若き日の陳祇は蜀に仕えることになります。
費禕に認められる
蜀の三代目トップである費禕は彼の博識多彩の能力を発見すると大いに期待を寄せます。
そして蜀の宮中におけるトップであった董允(とういん)が亡くなると宮中へ入り、
優秀である陳祇を皇帝である劉禅に仕えさせることに決めます。
董允は宦官の中でも黄皓が、
口が上手くて上司にへつらうことにかけては一番の人物であると見ており、
劉禅に近づけさせれば良くないことが起きる危険分子であると考えておりました。
そのため彼は黄皓が劉禅の近くにいけないように官位も非常に低い宦官のままにしておりました。
しかし陳祇が宮中へ入ったことで董允が一生懸命抑えていた黄皓が、
皇帝である劉禅に近づくことになってしまうのです。
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劉禅のお気に入りと知ると・・・
陳祇は劉禅の側近くに仕えることになると彼が気に入っている宦官が黄皓であることを知ります。
この事を知ると陳祇は黄皓を呼んで「私と協力してくれませんか」と要請。
黄皓は「私は宦官ですが、政治に関与してもいいのでしょうか。」と尋ねると
陳祇は「大丈夫ですよ。私に任せてください。」と自信満々に答えます。
その後蜀の法の番人であった呂乂(りょがい)が亡くなると陳祇が呂乂の跡を継いで、
尚書令(しょうしょれい)に就任することになり、将軍の位も与えられます。
彼はこうして蜀の政権の中枢に位置する地位を手に入れることに成功します。
蜀の政権の実権を握る
こうして宦官と手を結びながら官位は蜀の大将軍となっている姜維の2番手に付けることになった
彼ですが、蜀の政権を実質的に握っているのは彼でした。
その理由は姜維が連年北伐を実行していることが原因です。
姜維は費禕の跡を継いで蜀のトップに君臨することになると、すぐに兵を率いて北伐を開始。
蜀軍はこうして連年の北伐を行っているので姜維は蜀の首都である成都で、
政治を見ている時間などなく、政治の実権を握り判断を下していたのは蜀の二番手である陳祇でした。
しかし彼は宦官である黄皓に政治を多く任せており、
許可の必要なものだけを彼が判断しておりましたが、
彼は黄皓が上げてくる政治の内容ほとんど反対せず、
任せっきりでしたので黄皓が表舞台の政治の場で力をまして行く原因を作っていきます。
そして陳祇が亡くなると今まで蜀の政治を切り盛りしていた実績から、
ほとんどの政治案件を彼がさばいていくことになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
なんでもできるスーパー宰相である費禕が唯一犯した最大のミスが陳祇を認めて、
宮中へ入れたことではないのでしょうか。
費禕の人物鑑定眼をもってしても陳祇があまり役に立たない人物であることが分からない程、
彼は虚飾に満ちた人物であったのでしょう。
もし陳祇が費禕が期待していた通りの人物であったならば、
蜀の滅亡はもう少し遅かったかもしれません。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ
次回もまたはじさんでおあいしましょう。
それじゃあ~またにゃ~」
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