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王允(おういん)ってどんな人?中華を救うべく董卓暗殺に成功するも…残念な結末を迎える

2016年8月18日


 

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王允

 

後漢王朝は宦官が権力を握り、有能な人材を排斥した事による政治の乱れと皇帝が散財した事が原因で徐々に乱れ、霊帝(れいてい)の時代になると黄巾の乱が勃発し、大いに中華の国が乱れていきます。

 

董卓えらそう 独裁

 

黄巾の乱は各地の実力者と漢軍によって討伐されますが、漢の国の乱れは治りませんでした。その後漢は董卓(とうたく)が権力を握った事で、政治が乱れていきます。漢の国がこのままでは滅んでしまうと思った王允(おういん)は、董卓殺害を計画。この計画は見事に成功し、王允を主導とした新しい漢の政治が運営を行うはずでしたが、彼は董卓暗殺から2ヶ月後に亡くなってしまいます。なぜ彼は董卓暗殺から2ヶ月でなくなってしまったのでしょうか。彼の生涯を追いながら調べてみました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名士から認められた才能

王允

 

王允は太原郡出身の人です。彼は幼少期から自らをしっかりと律し、人としての正しい道を歩むため、不正や曲がったことが大っ嫌いな性格でした。儒者として天下に名を馳せていた名士・郭泰(かくたい)は、実家である太原に帰ってきた時、王允と会う機会があり現在の漢王朝や時勢について、色々と話をします。彼は王允と別れた後、知り合いに王允について聞かれます。すると彼は「あの青年は一日千里を走り、王佐の才を持っている。成長すれば必ず漢王朝にとって必要な人材へ育つことだろう。」と評価を下します。王允は天下の名士からこのような高評価をしてくれたことに驚きを隠せませんでしたが、素直に喜びます。

 

立身出世のきっかけとなった黄巾の乱

暴れる黄巾党008

 

王允は黄巾の乱が勃発すると、豫州刺史(ようしゅうしし)に任命され、黄巾討伐を命じられます。

 

腐れ儒者気質な孔融

 

彼は軍勢を率いて出陣すると孔子の子孫である孔融(こうゆう)と荀彧の叔父で名士として天下にその名声を轟かせている荀爽(じゅんそう)らを部下に加えて、黄巾賊の武将を討ち取ります。こうして彼は、豫州の平穏を取り戻しますことに成功しますが、この討伐戦の時に中常侍筆頭である張譲(ちょうじょう)が黄巾賊に内応する手はずを整えたとの内容が書かれた書状を手に入れます。彼はこの書状を手に入れるとすぐに皇帝である霊帝に報告します。しかしこの報告によって彼は絶体絶命の危機に陥ることになります。

 

黄巾賊

 

生死の境に陥る

張譲(宦官)

 

張譲は黄巾賊に出した内応書が王允の手によって、霊帝が渡ったことを知ると急いで宮殿へ赴き、霊帝に何度も何度も頭を下げて謝り続けます。霊帝は張譲が必死に謝ってくる姿を哀れに思い、彼の罪を許して今まで通り仕えるように命じます。こうして霊帝からの許しを得た張譲は王允に恨みを抱き、彼に無実の罪を着せて牢獄へ放り込みます。

 

王允は同僚から「このまま、張譲から色々と恥ずかしい思いをさせられ、いたぶられ、辱めを得るくらいなら、自殺したほうがいいのではないのか」と説得されます。しかし王允は「私には罪を得るような事を何もしていない。それなのになぜ私が自殺をせねばならないのだ。」と同僚に語ります。こうして獄舎の中のつらい生活に耐え忍びますが、彼は次の牢獄場所へと連れていかれます。

 

当代の名士達が、王允の命乞いを行う

何進

 

王允が牢獄生活を行っている間、漢の朝廷では大将軍・何進(かしん)をはじめとして、袁紹の叔父で、大尉の高官の位に就いていた袁隗(えんかい)などの高官が、彼の命を助けようと、霊帝に懇願。霊帝は彼らの必死な懇願を受け入れます。こうして王允は彼らの懇願によって二年ぶりに牢獄の外へ出ることができましたが、宦官によって再び狙われる事を恐れたため、朝廷に戻ることしませんでした。彼は朝廷に戻らずに、各地を旅行し民衆の現状や民衆目線で見た各地の政治の状況を確かめることで、自らの見識を高めて行きます。

 

宦官討滅作戦が決行される

宦官

 

何進(かしん)は漢の政治が腐敗している原因は、皇帝の奥を取り締まっている宦官達が政権を握っていることが原因であると判断します。そのため彼は西縁八校尉(せいえんはちこうい)である袁紹(えんしょう)や袁術(えんじゅつ)、曹操らに命じて兵を集めるように指示を与えますが、彼は宦官らによって暗殺されてしまいます。袁紹は何進が殺害されたことを知ると、自ら率いてきた兵を用いて、宦官がいる宮殿の奥地へ向かい、宦官を片っ端から殺害していきます。中常侍(ちゅうじょうじ)である張譲(ちょうじょう)は、次世代の皇帝である劉辯(りゅうべん)と陳留(ちんりゅうおう)である劉協(りゅうきょう)を引き連れて洛陽を脱出。張譲は劉辯と劉協を引き連れて洛陽を脱出しますが、途中で騎兵の軍勢と遭遇することになります。

 

皇帝を引き連れて董卓洛陽へ至る

戦え于禁㈪02 董卓

 

董卓(とうたく)は洛陽から逃げてきた一団を発見。この一団に近づいていくと、一団を率いていた男達がいきなり逃走していきます。董卓は逃走した軍団を無視して一団に近づき、車に乗っていた少年二人に名を訪ねます。すると二人の少年の内、一人はぶるぶると震え、泣きわめいておりました。もう一人は董卓に近づき「われは陳留王・劉協である。こちらにおわすのは先のご子息である・劉辯様である。おぬしの名前は何というのじゃ。」と威厳のある声で董卓に問いただします。董卓はこの威厳のある声に驚き、陳留王である劉協に自らの名とここにいる経緯をゆっくりと語ります。劉協は皇帝の代わりに董卓に向かってお礼を述べ、洛陽へ向けて護衛するように伝えます。董卓は劉協の要請を受け、彼らを洛陽へ送り届けます。

 

董卓によって引き立てられる

董卓

 

王允(おういん)はこのような混乱している洛陽へ戻ってきます。漢の朝廷は董卓によって政権を握られてしまいますが、なぜ董卓が政権を握ることになったのでしょうか。それは董卓が兵を連れて、洛陽へ入城したことがきっかけです。彼は洛陽に連れてきた兵の数は少なかったのですが、一部の部隊を切り離し幾度も繰り返し洛陽へ入場させます。この結果、朝廷の臣下達は董卓が大軍を引き連れて洛陽へ入場してきたと勘違いし、董卓に恐れを抱きます。董卓は、朝廷の臣下が自分に恐れを抱いたと確信し、前から考えていた計画を実行に移します。その計画とは皇帝をチェンジすることです。

 

後継者争い 劉協と劉弁

 

董卓は劉辯がどうしようもないポンコツであることに気づき、弟である陳留王・劉協を皇帝に就任させます。その後董卓は自らが政権を握って、自らの思い通りに漢の朝廷を動かしていきます。だが政権運営には政治の才能を持っている人間が大量に必要になってきます。そこで彼は蔡邕(さいよう)、劉備の学問の先生として知られる盧植(ろしゅく)、荀彧の叔父である荀爽(じゅんそう)、黄巾討伐でその名をはせた朱儁(しゅしゅん)など天下に名を轟かせた名士をかき集め、政治に参加させます。王允はこの董卓政権に参加することになり、尚書令に任命されます。

 

董卓の横暴を止めるため、天下無双の武を仲間に引き込む

董卓&呂布

 

王允は日に日に董卓の横暴が強まっていく事に、怒りを感じますが、董卓を表立って批判できない非力さも痛感。彼は董卓殺害をひそかに計画します。まずは董卓を殺害するための仲間集めから始めます。王允が最初に目を付けたのは董卓の護衛隊長である呂布を仲間に引き込もうと企みます。そのため呂布の身辺調査から行っていきます。

 

 

すると呂布は董卓の側室に手を付けており、董卓にばれてしまったらどのような罰を受けるか分からない為、大いに不安がっているとの情報を入手します。王允はこの情報を手に入れると早速、呂布の元へ向かいます。彼は呂布と会うことに成功すると早速自分が手に入れた情報を話した後で、「呂布殿。もし董卓に側室との事がバレたら、いくらあなたといえども命はありますまい。自分の命と側室の命を守るためには、董卓を殺害するしかありません。私は今、董卓を殺害する計画を立てているのですが、参加しませんか。」と率直に伝えます。呂布は王允の董卓暗殺計画に参加する決意を固めます。

 

皇帝の協力を得る

 

王允(おういん)は呂布のほかにも董卓の武将である李粛(りしゅく)を仲間に引き入れ、計画が進んでいきます。王允は仲間を集めることに成功しますが、ここで董卓暗殺を行い、暗殺に成功してもただの反乱者で終わってしまいます。そのため彼は董卓暗殺の計画遂行の大義名分を得るため、皇帝からの命令である詔勅(しょうちょく)をもらいに行きます。王允は皇帝に拝謁すると董卓暗殺を行うことを告げます。皇帝は王允に「必ず成功するのか」と問いただします。すると王允は「はい。必ず董卓を殺害できます。ですから陛下に董卓殺害の詔勅をいただきたいと思います。」と懇願。皇帝は王允の自信たっぷりの言葉に心を動かされ、董卓暗殺を命令する詔勅を彼に与えます。こうして王允は董卓暗殺の大義名分を得ると、早速董卓暗殺計画の再確認を行い、暗殺計画が刻々と近づいてきます。

 

董卓暗殺計画実行の刻

 

王允は董卓の快気祝いの日に暗殺の実行日と決めます。そして彼はこの実行日を待つ間、計画の再確認を仲間達と繰り返し行い、計画に不備がないようにします。そしてついに待ちに待った暗殺計画の日がやってきます。董卓は何も知らずに皇帝がいる宮殿に護衛兵を連れてやってきます。董卓が宮殿の門をくぐった所で、李粛に董卓暗殺の詔勅を読み上げさせます。そして読み終わった所で、呂布が渾身の力を込めた一撃を董卓に食らわせ即死してしまいます。こうして漢の政権で欲しい気ままに暴虐を行っていた董卓は亡くなります。

 

蔡邕を処断する

 

王允は董卓殺害後、政権の動揺を抑えるため、新たな政権を運用する為の人事を整えていきます。しかしこの時、董卓の時代に政治の運用を任されていた蔡邕(さいよう)は、董卓が亡くなったことを聞くと大いに悲しみます。王允は蔡邕が董卓の死を悲しんでいると聞くと激怒。そして彼は「漢の朝廷をほしいままにしていた董卓を私が殺したのに、董卓が死ぬと蔡邕は大いに悲しんでいる。奴も大逆賊である董卓の一味だ。牢屋へ叩き込め。」と命令を下します。蔡邕は牢獄へ連れていかれることになりますが彼はこの時、漢の歴史書を製作しておりました。そのため彼は「死刑を止めていただきたい。それ以外の罰なら何でも受ける。」と懇願しますが、王允は彼の願いを聞き入れずに処断します。この蔡邕処断の知らせを聞いた太尉(たいい)の馬日磾(ばじつてい)は同僚達に「王允殿は長く生きることはできないであろう。その理由は政権を運営していく人物は人の痛みを分からなくてはならない。また国家の事業を記している歴史書を製作する人物を処断してしまうような人物が、長く政権にいることはできず、途中でなくなってしまうであろう。」と語ります。この言葉のいう通り、王允はある政策の判断ミスが原因で、長く生きることはできませんでした。

 

董卓残党軍の処遇を間違える

 

王允は董卓から政権を奪い返し、漢の政権を正しい方向へ導こうと色々な政策を打ち出していきますが、一つ大きなミスを犯してしまいます。そのミスとは、董卓残党軍の処遇についてです。彼は董卓軍の残党に対しての処遇を何にも決めることをせず、朝廷や長安の荒れた民心の安定に対しての政策のみを行っていました。董卓軍の残党である李傕や郭汜らは、これからどうなるのか不安で仕方なく、途方に暮れてしまいます。そんな董卓軍の残党に指針を打ち出した人物がおりました。

 

賈詡(賈ク)

 

その人物は後に曹操軍の軍師として大いに活躍することになる賈詡(かく)です。彼は李傕や郭汜などの董卓軍残党の幹部達に「このままここにいても何にもなりません。ここでこうしているよりは、長安へ攻め込んでみてはいかがでしょうか。もし負けてしまった場合はその時、考えればいいのではないのですか。」と幹部達を説得します。李傕や郭汜らの董卓残党軍幹部らは賈詡の進言を採用し、長安を攻略するべく進軍を開始します。

 

長安陥落…そして

董卓戦上手なの?

 

王允は董卓残党軍が長安へ向けて進軍を開始したとの報告を受けます。彼は董卓軍残党を迎撃するため、呂布や徐栄(じょえい)らに出陣を命じます。しかし徐栄らは董卓軍残党に大敗北をしてしまいます。その後呂布が軍勢を率いて迎撃に出ますが、彼も董卓軍残党に敗北してしまいます。王允は迎撃軍がすべて敗北した事を知ると皇帝を連れて長安城の門の上に逃げ込みます。李傕や郭汜達は迎撃軍を壊滅させて長安に乱入してくると、王允は董卓軍の残党に追いつめられると自らの死を覚悟し、皇帝を連れ出して門の上から降ります。

 

 

その後王允は一族郎党が全員殺害されてしまいます。彼は董卓暗殺に成功してからたった2ヶ月しか、政権を運営することができませんでしたが、民衆からは彼の死を大いに悲しんだそうです。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

今回は王允についてご紹介いたしました。青年期の王允の性格は、自らをしっかりと律し、人としての正しい道を歩むため、不正や曲がったことが大っ嫌いな性格でした。しかし董卓殺害後は青年期のような性格から変化をきたし、政治の事で臣下や同僚から相談されてもムスッとした表情で接しておりました。また政権を握った驕りからか、態度が傲慢になっていきます。こうした性格の変化も彼が亡くなる原因になったのではないのでしょうか。もし人に接するときに謙虚になっていれば、蔡邕を処断することもなく、董卓軍残党に対してもしっかりとした対応ができたのではないのでしょうか。

 

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漢のマイナー武将列伝

 

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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