戦時下において、武器を取って戦うのは多くの場合男性です。現実、日本でも戦時下では徴兵されていたのは男性のみですし、女性は前線で戦うことはありません。歴史上でも例外的なことももちろんありますが、基本的に女性は戦場には出ません。
ところが、最近の漫画やアニメ、ラノベでは女性キャラでも前線に出て戦っていたり、主人公の上官が女性だったり、部下も女性だったり、同僚にも女性がいたりします。場合によってはハーレム状態で、戦争してるんだか何してるんだか分からないものもあります。さて、三国志ではどうだったのでしょうか。
三国志における「前線で戦った女性」として該当する人物として王異が挙げられます。彼女は、小説「三国志演技」では王氏として登場しています。今回は、戦う女性、王異についてご紹介します。
この記事の目次
王異はどのような人だった?
王異は、涼州漢陽郡の出身で、趙昂の妻です。彼女の所属は、魏呉蜀の三国でいえば、曹操の配下となるので、魏に属します。王異と趙昂には、息子の趙月と娘の趙英がいたとされています。他にも男子が二人いたようですが、名前が残っているのは息子と娘の二人です。
彼女は、女性でありながら勇ましくまた決断力のある、思い切りの良い人だったそうです。加えて、才智にも溢れていました。知力と決断力に秀でているとなれば、女性とはいえ「戦向き」の人物であることが窺えます。また、儒教思想に従順であり、節義を非常に重んじる性格でした。そのような気質のためか、彼女は戦乱の中で数々の逸話を残しています。
戦乱に巻き込まれる王異
梁双という男が天水郡で反乱を起こした時のことです。
この時、王異は近隣の西県に住んでいました。夫の趙昂は羌道の県令として単身赴任(?) してました。天水郡の梁双は西県に向けて侵攻し、趙昂(ちょうこう)の男子二人を殺してしまいました。
王異(おうい)は梁双(りょうそう)に乱暴されることを危惧し、自害しようとしましたが、当時6歳の娘の趙英(ちょうえい)を見て思い留まりました。幼い娘を残して先に逝く訳にはいきません。そこで何とかうまく切り抜けるために策を用います。
王異の汚物大作戦
王異(おうい)「春秋時代で最も美しかった西施ですら、不潔な服を着れば人が鼻をつまむと言われます。ましてや私は西施(せいし)ではないのだから、こうすれば絶対に誰も近づきたがらないでしょう」そう言うと麻の着物に汚物を塗りたくり、その着物を着ました。もともと特有のにおいがする麻に汚物を塗りたくっては、誰も近寄りたくなりません。
さらに、過度のダイエットを行うことでガリガリになり、老けこんだ顔つきになりました。生気が感じられない臭くて汚い浮浪者婆さんには、もちろん誰も関わりたがりませんでした。その後、梁双(りょうそう)が和解したため戦は終りを迎えしました。
礼を重んじ過ぎて死にかける王異
梁双(りょうそう)の元から解放された王異(おうい)と趙英(ちょうえい)は、馬車で趙昂(ちょうこう)の元へ向かいます。そして、羌道の間近の宿で王異(おうい)は趙英(ちょうえい)に言いました。王異(おうい)「その昔、楚の昭王(しょうおう)の妻の貞姜(ていきょう)は物見遊山に行ったそうです。
その時、王は物見遊山が洪水になると聞き、使者に連れてくるように命じました。しかし、使者に王の割符を渡し忘れていたため、貞姜(ていきょう)は偽の使者であることを疑い、使者に従わず洪水に飲まれてしまったそうです。」
趙英(ちょうえい)「かわいそう。でも、忠節を守ったのね。」王異(おうい)「春秋時代の魯の伯姫(はくき)は火事にあった時に、守り役がいなかったため、逃げることを拒み、そのまま焼死したそうです。」
趙英(ちょうえい)「立派だけど、真似はしたくないね。」
王異(おうい)「いいえ。婦人は割符や使者がなければ、たとえ死が迫っても無断で動いてはなりません。
私も彼女らと同じく、使者も無く趙昂(ちょうこう)の元へ戻る等あってはなりません。でも、あなたを一人にしたくなくてこうしてここまで来ました。そして、もうあなたは無事に趙昂(ちょうこう)の元へたどり着けるでしょう。私はここであなたと別れて死ぬことにします。」
そう言うと、毒薬を飲み意識を失いました。しかし、役人が運よく薬湯を持ち合わせていたので、一命を取り留めました。節義のために、死にかける程の王異(おうい)は礼節を重んじていたのです。
自らの財を褒美とする王異
彼女が特に活躍したのは、夫である趙昂(ちょうこう)とともに冀城を守った時でした。
曹操(そうそう)との戦いに敗れた馬超(ばちょう)は一時敗走したものの隴西の諸郡を攻め取っていました。しかし、涼州刺史の韋康(いこう)の守る西方の曹軍領、冀城のみいかに攻めても落ちませんでした。とはいえ、冀城も馬超(ばちょう)の包囲のために物資が不足し、困窮していきました。
王異(おうい)は自身の財産である装飾品や高価な服を持ちだし、兵に褒美として与え、士気を高めました。しかし、馬超(ばちょう)からの猛攻により城内の兵は疲弊し、また飢えも激しくなってきたため、韋康(いこう)は降伏を考えました。
参軍事である趙昂(ちょうこう)は反対しましたが、韋康(いこう)は降伏してしまいました。馬超(ばちょう)は降伏した韋康(いこう)とその一族を皆切り殺してしまいました。さらに、趙昂(ちょうこう)と王異(おうい)の子、趙月(ちょうげつ)を人質にとりました。
関連記事:馬超(ばちょう)蜀に入った時にはピークを過ぎていた?
関連記事:まさにバーリトゥード!首絞め、刺殺、兜取り!何でもありだった。リアルな三国志の一騎打ちで馬超をフルボッコにした男がいた!
我が子を人質にとられた王異
我が子を人質として取られた王異(おうい)と趙昂(ちょうこう)でしたが、馬超(ばちょう)を撃退すべく、近隣にある歴城の姜叙(きょうじょ)や仲間の楊阜(ようふ)と計画を練りました。
しかし、趙昂(ちょうこう)は、人質となった息子の趙月(ちょうげつ)が気がかりでした。そのことを王異(おうい)に話すと、王異(おうい)「君父の甚大な恥辱を雪ぐためです。
主君のためなら、己の命も取るに足りないのに、子供くらいがなんだというのですか?仮にこの場で生き永らえたとして、人の一生等短いものです。ならば、道義を尊重すべきでしょう。」この一言で、趙昂(ちょうこう)は決心しました。
歴城の姜叙(きょうじょ)は外から攻撃し、内からは楊阜(ようふ)の部下が内応し、さらに夏侯淵(かこうえん)が援軍に参上しました。これにはたまらず、馬超(ばちょう)は敗走しますが、今度は歴城に雪崩込み、歴城にいた反乱軍の一族を皆殺しにしてしまいました。ただ、趙昂(ちょうこう)の一家では王異(おうい)のみ従軍していたため、難を逃れたそうです。
しかし、その後・・・
馬超(ばちょう)はその後、漢中の張魯(ちょうろ)の許へ身を寄せました。そして、張魯(ちょうろ)から兵を借り、再び襲撃に来ました。王異(おうい)と趙昂(ちょうこう)と祁山に陣取り応戦し、馬超の包囲は30日間続きました。
その後、援軍が到着したため馬超(ばちょう)は撤退しましたが、人質であった趙月(ちょうげつ)は馬超(ばちょう)に殺されてしまいました。冀城への攻撃から祁山で戦いまで、趙昂(ちょうこう)は九つの奇計を繰り出しますが、王異(おうい)はその全てに参加していました。
三国志ライターFMの独り言
王異(おうい)は、礼節を重んじ過ぎて少し物騒な人にも見えますが、信念がある人は格好良いですよね。彼女は主に計略を以って戦っていたようです。身体的に非力な女性でも、そういった戦いであれば、戦うことができます。実際、有名な関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)は力の強さが自慢ですが、そうした例外を除けば、一個人の力など大差はありません。
むしろ、将として大事なのは兵の指揮能力や兵法をどれだけ分かっているかです。そうした点では、男女の能力の差など大きな問題ではないのかもしれません。現代でも性別に関わらず社会で活躍している女性はいますしね。
関連記事:三国志で一番の悪酔い君主は誰だ?【酒乱ランキング】
関連記事:【素朴な疑問】三国志の時代にも居酒屋ってあったの?
【動画】三国志の魏が人材の宝庫になった理由
はじめての三国志はYoutubeでもわかり易さを重視した解説動画もやっています♪
解説動画が分かりやすかったらGoodボタンを!
気に入ったらチャンネル登録お願いします〜♪