王異ってどんな人?戦乱の中で数々の逸話を残してきた女性武将

2016年8月29日


 

太史慈 孫策

 

戦時下において、武器を取って戦うのは多くの場合男性です。現実、日本でも戦時下では徴兵されていたのは男性のみですし、女性は前線で戦うことはありません。歴史上でも例外的なことももちろんありますが、基本的に女性は戦場には出ません。

 

同年小録(書物・書類)

 

ところが、最近の漫画やアニメ、ラノベでは女性キャラでも前線に出て戦っていたり、主人公の上官が女性だったり、部下も女性だったり、同僚にも女性がいたりします。場合によってはハーレム状態で、戦争してるんだか何してるんだか分からないものもあります。さて、三国志ではどうだったのでしょうか。

 

王異

 

三国志における「前線で戦った女性」として該当する人物として王異(おうい)が挙げられます。彼女は、小説「三国志演技(さんごくしえんぎ)」では王氏(おうし)として登場しています。今回は、戦う女性、王異(おうい)についてご紹介します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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王異はどのような人だった?

絶世美女 貂蝉

 

王異(おうい)は、涼州(りょうしゅう
)
漢陽郡(かんようと)の出身で、趙昂(ちょうこう)の妻です。彼女の所属は、魏呉蜀の三国でいえば、曹操(そうそう)の配下となるので、魏に属します。王異(おうい)趙昂(ちょうこう)には、息子の趙月(ちょうげつ)と娘の趙英ちょうえい)がいたとされています。他にも男子が二人いたようですが、名前が残っているのは息子と娘の二人です。

 

彼女は、女性でありながら勇ましくまた決断力のある、思い切りの良い人だったそうです。加えて、才智にも溢れていました。知力と決断力に秀でているとなれば、女性とはいえ「戦向き」の人物であることが窺えます。また、儒教思想に従順であり、節義を非常に重んじる性格でした。そのような気質のためか、彼女は戦乱の中で数々の逸話を残しています。

 

戦乱に巻き込まれる王異

行軍する兵士達b(モブ)

 

梁双(りょうそう)という男が天水郡で反乱を起こした時のことです。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

この時、王異(おうい)は近隣の西県に住んでいました。夫の趙昂(ちょうこう)は羌道の県令として単身赴任(?) してました。天水郡の梁双(りょうそう)は西県に向けて侵攻し、趙昂(ちょうこう)の男子二人を殺してしまいました。

 

進軍する兵士a(モブ用)

 

王異(おうい)は梁双(りょうそう)に乱暴されることを危惧し、自害しようとしましたが、当時6歳の娘の趙英(ちょうえい)を見て思い留まりました。幼い娘を残して先に逝く訳にはいきません。そこで何とかうまく切り抜けるために策を用います。

 

王異の汚物大作戦

 

王異(おうい)「春秋時代で最も美しかった西施(せいし)ですら、不潔な服を着れば人が鼻をつまむと言われます。ましてや私は西施(せいし)ではないのだから、こうすれば絶対に誰も近づきたがらないでしょう」そう言うと麻の着物に汚物を塗りたくり、その着物を着ました。もともと特有のにおいがする麻に汚物を塗りたくっては、誰も近寄りたくなりません。

 

さらに、過度のダイエットを行うことでガリガリになり、老けこんだ顔つきになりました。生気が感じられない臭くて汚い浮浪者婆さんには、もちろん誰も関わりたがりませんでした。その後、梁双(りょうそう)が和解したため戦は終りを迎えしました。

 

礼を重んじ過ぎて死にかける王異

 

梁双(りょうそう)の元から解放された王異(おうい)と趙英(ちょうえい)は、馬車で趙昂(ちょうこう)の元へ向かいます。そして、羌道の間近の宿で王異(おうい)は趙英(ちょうえい)に言いました。王異(おうい)「その昔、楚の昭(しょうおう)の妻の貞姜(ていきょう)は物見遊山に行ったそうです。

 

その時、王は物見遊山が洪水になると聞き、使者に連れてくるように命じました。しかし、使者に王の割符を渡し忘れていたため、貞姜(ていきょう)は偽の使者であることを疑い、使者に従わず洪水に飲まれてしまったそうです。」

 

趙英(ちょうえい)「かわいそう。でも、忠節を守ったのね。」王異(おうい)「春秋時代の魯の伯姫(はくき)は火事にあった時に、守り役がいなかったため、逃げることを拒み、そのまま焼死したそうです。」

 

趙英(ちょうえい)「立派だけど、真似はしたくないね。」

 

王異(おうい)「いいえ。婦人は割符や使者がなければ、たとえ死が迫っても無断で動いてはなりません。

 

私も彼女らと同じく、使者も無く趙昂(ちょうこう)の元へ戻る等あってはなりません。でも、あなたを一人にしたくなくてこうしてここまで来ました。そして、もうあなたは無事に趙昂(ちょうこう)の元へたどり着けるでしょう。私はここであなたと別れて死ぬことにします。」

 

そう言うと、毒薬を飲み意識を失いました。しかし、役人が運よく薬湯を持ち合わせていたので、一命を取り留めました。節義のために、死にかける程の王異(おうい)は礼節を重んじていたのです。

 

自らの財を褒美とする王異

馬超仲間入り

 

彼女が特に活躍したのは、夫である趙昂(ちょうこう)とともに冀城を守った時でした。

 

曹操を絶対殺すマンとしてなった馬超

 

 

曹操(そうそう)との戦いに敗れた馬超(ばちょう)は一時敗走したものの隴西の諸郡を攻め取っていました。しかし、涼州刺史の韋康(いこう)の守る西方の曹軍領、冀城のみいかに攻めても落ちませんでした。とはいえ、冀城も馬超(ばちょう)の包囲のために物資が不足し、困窮していきました。

 

王異(おうい)は自身の財産である装飾品や高価な服を持ちだし、兵に褒美として与え、士気を高めました。しかし、馬超(ばちょう)からの猛攻により城内の兵は疲弊し、また飢えも激しくなってきたため、韋康(いこう)は降伏を考えました。

 

参軍事である趙昂(ちょうこう)は反対しましたが、韋康(いこう)は降伏してしまいました。馬超(ばちょう)は降伏した韋康(いこう)とその一族を皆切り殺してしまいました。さらに、趙昂(ちょうこう)と王異(おうい)の子、趙月(ちょうげつ)を人質にとりました。

 

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我が子を人質にとられた王異

 

我が子を人質として取られた王異(おうい)と趙昂(ちょうこう)でしたが、馬超(ばちょう)を撃退すべく、近隣にある歴城の姜叙(きょうじょ)や仲間の楊阜(ようふ)と計画を練りました。

 

しかし、趙昂(ちょうこう)は、人質となった息子の趙月(ちょうげつ)が気がかりでした。そのことを王異(おうい)に話すと、王異(おうい)「君父の甚大な恥辱を雪ぐためです。

 

主君のためなら、己の命も取るに足りないのに、子供くらいがなんだというのですか?仮にこの場で生き永らえたとして、人の一生等短いものです。ならば、道義を尊重すべきでしょう。」この一言で、趙昂(ちょうこう)は決心しました。

 

歴城の姜叙(きょうじょ)は外から攻撃し、内からは楊阜(ようふ)の部下が内応し、さらに夏侯淵(かこうえん)が援軍に参上しました。これにはたまらず、馬超(ばちょう)は敗走しますが、今度は歴城に雪崩込み、歴城にいた反乱軍の一族を皆殺しにしてしまいました。ただ、趙昂(ちょうこう)の一家では王異(おうい)のみ従軍していたため、難を逃れたそうです。

 

しかし、その後・・・

馬超021

 

馬超(ばちょう)はその後、漢中の張魯(ちょうろ)の許へ身を寄せました。そして、張魯(ちょうろ)から兵を借り、再び襲撃に来ました。王異(おうい)と趙昂(ちょうこう)と祁山に陣取り応戦し、馬超の包囲は30日間続きました。

 

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

その後、援軍が到着したため馬超(ばちょう)は撤退しましたが、人質であった趙月(ちょうげつ)は馬超(ばちょう)に殺されてしまいました。冀城への攻撃から祁山で戦いまで、趙昂(ちょうこう)は九つの奇計を繰り出しますが、王異(おうい)はその全てに参加していました。

 

三国志ライターFMの独り言

FM

 

王異(おうい)は、礼節を重んじ過ぎて少し物騒な人にも見えますが、信念がある人は格好良いですよね。彼女は主に計略を以って戦っていたようです。身体的に非力な女性でも、そういった戦いであれば、戦うことができます。実際、有名な関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)は力の強さが自慢ですが、そうした例外を除けば、一個人の力など大差はありません。

 

むしろ、将として大事なのは兵の指揮能力や兵法をどれだけ分かっているかです。そうした点では、男女の能力の差など大きな問題ではないのかもしれません。現代でも性別に関わらず社会で活躍している女性はいますしね。

 

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民間伝承の三国志

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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