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天才魯粛の生涯!赤壁の勝利は魯粛無しにはあり得なかった?

2016年9月1日


 

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魯粛

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

三国志演義では、周瑜(しゅうゆ)の友達で、

ただのお人好し扱いの魯粛(ろしゅく)ですが、実は彼がいなければ、

赤壁の戦いも、、呉、蜀の三国時代もあり得ませんでした。

誰よりも先に、後漢の滅亡を予期し三国鼎立のプランを描いた天才こそ

この魯粛だったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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若い頃から後漢の滅亡を予期、戦争訓練を繰り返す

魯粛

 

魯粛は字を子敬(しけい)と言い、西暦172年、

徐州臨淮(りんわい)郡東城(とうじょう)県に生まれました。

家は裕福でしたが、早くに父を亡くし、祖母に育てられます。

大きくなると、周辺の人々によく施しを行い、家業は顧みませんでした。

これは、ただの慈善事業ではなく、こうして人心を集めた魯粛は、

私兵を養い、山に入っては戦争訓練に明け暮れるようになります。

 

魯粛は後漢が衰え、やがて乱世が来る事を予期して、

使い物になる兵を訓練しようという考えでしたが、

あまりの先見性に周囲の人々には全く理解されず

「魯子敬は大バカだ、もう魯家もオシマイだろう」

 

と散々に陰口を叩かれていたと言います。

 

生涯の盟友、周瑜と堅い絆を結ぶ

魯粛と周瑜

 

周瑜(しゅうゆ)が居巣(きょそう)県の長であった頃、

名声が高かった魯粛に面会しました。

そして、いきなり魯粛に資金や食糧の援助を求めます。

 

しかし、魯粛は周瑜の非凡な才能を見抜き、

二つあった倉の一つを周瑜に丸ごと与えました。

これには周瑜も感服し、以後、魯粛と交遊を結ぶようになります。

 

袁術に仕えるも、あまりの支離滅裂さに呆れて辞職

魯粛、周瑜、袁術

 

魯粛の名声は、袁術(えんじゅつ)の耳にも到達し、

なんだか色々人材を集めていた袁術は魯粛を抜擢、東城県の長に任命します。

 

しかし、袁術の支離滅裂な政権運営について行けなくなった魯粛は、

一族や血気盛んな郎党を率いて、居巣の周瑜を頼っていきます。

周瑜も、やはりエキセントリックな袁術に愛想が尽きていたので、

長江を下って孫策(そんさく)に仕えようと魯粛を誘い魯粛も賛成します。

 

ところが、長江を渡ろうとすると、袁術の配下の役人が、

それを押しとどめようとしたので、魯粛は恫喝と弁舌と

武力をちらつかせ、強引に渡河し孫策に面会しました。

孫策も、魯粛の度胸の据わっている事に感心して尊重したと言います。

 

劉曄の下へ行く予定が呉の孫権に仕える

魯粛と周瑜

 

やがて、祖母が死去すると、魯粛は弔いの為に東城県に戻ります。

葬儀が終わると、同じく友人の劉曄(りゅうよう)から「自軍に入らないか?」

とスカウトされ、承知なら、鄭宝(ていほう)という男が1万の兵で待っているから、

そこに合流するように言われます。

 

魯粛は、「君子の劉曄の配下なら文句は無い」と曲阿にいた母を

迎えに行きますが魯粛の母は、周瑜が呉に移していました。

 

魯粛が仕方なく呉に向かうと、周瑜は魯粛に

孫権(そんけん)に仕えるように説得します。

 

最初、魯粛は「劉曄と約束したから・・」と渋りますが、

 

「孫権様こそ王者になる御仁、こういっちゃなんだが劉曄とは格が違うぞ」

と熱心に説得され、それならと劉曄にはキャンセルの手紙を送り、

周瑜の推挙を得て、孫権の家臣になるのです。

 

漢室の復興を望む孫権に、独立を勧め張昭に睨まれる・・

 

孫権の下には、何十人という仕官目当ての人がいましたが、

孫権は魯粛の非凡な様子を目に止め、全員を帰らせた後で、

密かに魯粛を呼び出して、「漢王朝の為にワシに何が出来るだろうか?」

という質問をぶつけてみました、すると魯粛は

 

「漢王朝は復興できません!そして曹操(そうそう)は討とうにも

力が強いので、将軍は、さしあたり周辺地域を開拓して勢力を伸ばし

王として独立するのが最善の策であると言えるでしょう」

 

と述べて、孫権を沈黙させます、当時、まだ漢王朝が滅亡すると

口にするのは大変なタブーだったのです。

実際、漢室の再興を標榜する重臣の張昭(ちょうしょう)は魯粛を

「無礼である」と叱りつけていますが、孫権は密かに魯粛を気に入り

仕事は与えませんでしたが上客の扱いで厚遇したので

魯粛は何不自由なく暮らせました。

 

魯粛、劉備、孔明を引き入れ、周瑜と共に赤壁で曹操に大勝

 

魯粛が孫権に仕えてから8年、曹操が荊州に攻め込みます。

いよいよ、呉が危ないと見た魯粛は、孫権に荊州の様子を探るべきだと進言し

自らが使者になり荊州に入ると、もう劉表(りゅうひょう)の跡を継いだ

劉琮(りゅうそう)は降伏していました。

 

しかし、途中、江夏に敗走してきた劉備(りゅうび)、

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)と会い、孔明の天下三分の

プランを聞いて、自分の考えと同じであると知ると、これは使えると

孫権の意向を伝え、孔明と共に呉に帰還します。

 

そして、降伏派が99%だった呉の中で、周瑜と共に孫権を熱心に説得、

遂には、この意思をひっくり返して曹操と戦うと決まると周瑜が先陣を切り

赤壁で曹操軍を撃破して、曹操の天下獲りの野望に待ったを掛けたのです。

 

魯粛がいなければ、かなりの確率で孫権は曹操に降っていたでしょうから、

三国志は魯粛が造ったと言っても過言ではありません。

 

周瑜と路線が対立するも、飽くまで天下三分を堅持した魯粛

 

赤壁のどさくさで、荊州南郡を手に入れた劉備ですが、

それに周瑜は警戒感を抱きます。

周瑜は、天下二分論者で、劉備は邪魔だと考えていたのです。

 

しかし、魯粛は飽くまでも、天下三分を堅持して劉備を擁護しました。

やがて周瑜が矢傷の悪化で病死すると魯粛が後を継いで都督になり

ここに、魏・呉・蜀の天下三分は成立を見る事になります。

 

劉備の無理難題には筋を通した魯粛

 

劉備には甘いように見える魯粛ですが決してそうではありません。

劉備が益州を支配しても、荊州南郡を呉に返そうとしない時には、

魯粛は、刀一本で劉備軍の猛犬、関羽(かんう)とサシで交渉し

正論を持って関羽を言い負かし、長沙と桂陽を返還させています。

 

魯粛が劉備に甘いのは、劉備が天下三分には

必要不可欠な人間だからでありそれに関係ない時には、

きっちりと呉の重臣として筋を通したのでした。

 

魯粛は217年、46歳で死去しました。

その葬儀には孫権が参加して大声で泣き、孔明も蜀で喪に服したと言います。

スケールの大きな男、魯粛は敵も味方の魂も奮わせたのです。

 

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呉の武将

 

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