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梁興(りょうこう)は、字(あざな)も生まれた年も定かではありません。
個人の伝もなく、その活躍の記録は、三国志蜀志、「馬超(ばちょう)伝」や
魏志「夏侯淵(かこうえん)伝」「徐晃(じょこう)伝」「張郃(ちょうこう)伝」
「鄭渾(ていこん)伝」などで見る事が出来ます。
彼の人生には生まれ落ちた涼州の特徴が大きく影響しています。
それは、容易に支配者の権威には服さない遊牧民としてのプライドでした。
この記事の目次
中華十三州でも特異な土地である涼州
涼州は、他の州とは違う大きく際立った特徴があります。
それは土地が痩せていて、農作物が獲れない代わりに、
牧草が生い茂り家畜の生育に適しているという事です。
その為に、この土地には農耕をしないか或いは半農半牧の
遊牧民が大勢暮らし漢民族は少数派でした。
人口も四十万に満たないのに、領域は西域への玄関口である敦煌(とんこう)までと
広く広大な土地に人がまばらに住むという状態、当然のように多くの住民は騎馬民族であり
漢の統治が弱ると度々反乱を起こしました。
後漢の末に大暴れした関中十部の一人 梁興(りょうこう)
梁興が登場したのは、そんな漢族の支配力が弱った後漢の末でした。
どうやら梁興は、涼州の軍閥、関中十部(せきちゅう・じゅうぶ)の一人として割拠し
漢王朝のコントロールから抜け出し、各地で略奪を繰り返していた人物のようです。
この涼州には、韓遂(かんすい)という三十年もの間、後漢にも
曹操(そうそう)にも抗い続けた軍閥の親玉がいました。
そして、韓遂と双璧の関係で馬騰(ばとう)も広く涼州に根城を持ちます。
関中十部は、この韓遂と馬騰に同盟、或いは臣従する形で、
独立を維持し漢族の支配から抜けようとしていました。
関中十部の錚々たる面子とは?
関中十部には、最もメジャーな韓遂と馬騰以外に、
侯選(こうせん)、張横(ちょうおう)、程銀(ていぎん)、成宜(せいぎ)、
李堪(りかん)、 馬玩(ばがん)、梁興、楊秋(ようしゅう)の八名がいます。
まあ、多くの読者が「誰それ?」という感じでしょうが仕方ありません。
三国志演義では、この八名が「手下八部」と呼ばれ纏めて、
韓遂の家来、旗本のような扱いですが、実際には、この八名も軍閥として、
涼州にそれぞれ、数千家程度の私民を持っていた事でしょう。
韓遂と馬超は手を組んで曹操を追いつめるが離間の計で敗れる
韓遂と馬騰は、やがて仲違いし関係は修復不可能になり、
馬騰の方は、曹操の軍門に降っていきました。
しかし、涼州には御曹司の馬超が残留していて、
この馬超が父とは敵同士の韓遂と手を組んで曹操に反旗を翻します。
これが、西暦211年の潼関(どうかん)の戦いで東の長安を落とそうと狙う、
韓遂・馬超コンビの10万の精兵に曹操は大苦戦し、
今更ながらに厄介な騎馬民族の力を思い知る事になります。
ここで梁興は5000の騎兵を率いて、黄河を渡河して陣地を造ろうとしていた
朱霊(しゅれい)と徐晃の歩騎、4000人に襲い掛かって阻止しようとしますが、
あっさり撃退されて陣地を構築されました。
戦線は圧倒的な馬超の騎兵の前に曹操の防戦一方で推移しますが、
手紙を用いて韓遂と馬超の仲を疑心暗鬼にさせると、
一枚岩だった韓遂と馬超の連合軍は脆くも崩壊し、戦争は、
曹操軍の圧勝に終わってしまいます。
俺の仕事はここからよォ!それでも暴れまわる梁興
ですが、韓遂と馬超が仲違いし、関中十部の軍閥が一部曹操に降伏しても
梁興は負けずに諸県を荒らしては略奪を続けます。
大ボスが消えても暴れ回る辺りに、梁興の蛮勇が透けてみえます。
ただの韓遂や馬超の腰巾着では無かったのです。
その猛威に、涼州の守備軍は対抗できず、険しい土地に遷都して
砦に籠って我が身を守ろうという意見が大勢を占める程でした。
左馮翊、鄭渾、梁興の暴力に対峙する
ところが左馮翊(さひょうよく)に任命されていた鄭渾(ていこん)は、
「それでは梁興を勢いづかせるだけで問題の解決にはならない」と強く反対、
住民を励まして砦を修理させ「梁興の暴力には屈しない」という
力強いメッセージを送ります。
そして、涼州の民を集めて梁興の討伐軍を編成して、周辺の賊を退治します。
その時、鄭渾は、「賊から戦利品を得た者は、その7割を与える」としたので、
民兵のやる気は増幅し戦利品欲しさに各地で賊を打ち破りました。
魏も漢もクソ喰らえ!野望のままに自由に生きた梁興(りょうこう)
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