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松本清張も注目!邪馬台国(やまたいこく)はどこにあったの?

この記事の所要時間: 732




月 f

 

「邪馬台国」の謎と言いますと、いの一番に話題になるのがその位置について、

何処にあったか?ではないでしょうか。

21世紀に入った今でも謎に包まれています。

これまでにいくつかの説が浮上して、論議が交わされてきました。

その筆頭が、大和地域(奈良県)にあったとする説と、

北九州地域(筑後[福岡県])です。

日本最古の歴史書とされる「日本書紀」に始まり、

南北朝時代の北畠親房、江戸時代前期の松下見林、

江戸時代中期の新井白石たちが「大和説」を当然と主張していました。

そして、彼らは皆、女王・卑弥呼(ヒミコ)は大和朝廷の

皇族の祖先の「神功皇后(じんぐうこうごう)」と断定していたようです。

 

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大和説vs北九州説

本居宣長 wiki

 

次に、江戸時代の後期の「国学者」で知られる、

本居宣長は、何と、九州説を発展させた人でした。

とは言っても、本物の邪馬台国と卑弥呼は大和にあったという立場です。

どういうことかと言いますと、内実はこうです。

 

「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国と卑弥呼は、

北部九州を支配していた熊襲(くまそ)という種族ではないかとした上で、

その熊襲族が、「魏」の国の使節を騙し、自分たちは大和にある邪馬台国の民で、

王は卑弥呼であると吹き込んだと。

それで、魏国から名誉も財宝など、多くの利益を得たと考えたようです。

 

宣長はあくまでも、本物の邪馬台国は大和であったという立場でした。

なぜ、そのような紛らわしい立場を取ったかと言いますと、

「魏志倭人伝」に記されていた、

朝鮮半島から邪馬台国までの道中に出てくる国々が発音的に大和周辺にある国ではない、

また、そもそも、魏志に記述されている道程の日数が誤りであるなどという理由をつけたそうです。

しかし、この宣長の説が発表されてから数年の後に、

北九州の筑前志賀島で「漢委奴国王」の刻印された印が発見されたこともあってか、

九州説を唱える者が増えたそうです。

さて、ここから大和説vs北九州説の論争の勃発です。

さまざまな学者たちが論じ合いました。

それは、明治時代に以降になっても、さらに20世紀に入って、戦後になると一層激しくなったそうです。

ちなみに、先のテーマ記事で取り上げた石ノ森章太郎の歴史漫画ですが、

それが書かれたのは「平成」の初め、佐賀に吉野ヶ里遺跡が発見された当時なので、

石ノ森は邪馬台国の位置を九州説とするの見方が強いようです。

そのような立場を取るのを頷けます。




松本清張「古代史疑」の紹介

松本 清張

 

さて、先のテーマで取り上げました石ノ森章太郎漫画も目を引くところでしたが、

続いて興味深いのが、松本清張著作の「古代史疑」です。

 

 

少し古く、初版は1968年だそうで、現在は古本で手に入れるか、

図書館で借りるしか手がないようですが、清張が「邪馬台国」と「卑弥呼」の謎を解き明かしてくれる、

とても興味深く読めるオススメの一品です。

清張探偵の推理を直接本人の言葉で知る(小説などのキャラクターの言葉に依らない)、

貴重な機会ですので、一度でも目を通して頂きたい。

それでは、ここからは清張探偵の推理をご紹介します。

結論から申し上げると、清張は邪馬台国については、

北九州説派(筑後山門郡[福岡県南部]と推定)の立場です。

その根拠として、

発端となるのは「魏志倭人伝」(以下、魏志)は真実ではない部分があるという指摘です。

それは、正確な「数字」が書かれていないということなのです。

数字とは、邪馬台国を説明するための数字です。

邪馬台国までの「里数」(距離)、戸数(住宅数、つまり人口)、

そして国数(邪馬台国の周辺にあるいくつもの国の数)です。

どれも誇大に書かれていると清張は主張します。

例えば、里数ですが、魏志において、

帯方郡(朝鮮半島中西部・平壌の南方あたり?)

から邪馬台国までは「万二千里」という記述があります。

そして、魏志より前に書かれた、「前漢書」と言われる歴史書には、

大月氏国(今のアフガニスタンあたり)、安息(今のイランあたり)が登場しますが、

いずれも長安との距離を「万一千里程度」との記述があります。

どちらも途方もない距離です。しかし、アフガニスタン、

イランそれぞれと長安との距離が同じなので、それも不思議ですが、さらに言えば、

その距離と「魏志」の帯方郡から邪馬台国までの

距離がほぼ同じというのは不思議に思えないかというのです。

正確には邪馬台国はもっと近いに決まっているということです。

確かに書物は違うのですが、「前漢書」は、魏志の作者の陳寿(ちんじゅ)の生きた時代には、

貴重な敬意すべき最新の歴史書であり、彼が魏志、

つまりは三国志を書くときに参考したとは大いにあり得ることです。

距離数においても、そうだろうという考えです。

とにかく、距離数については、清張が言うように「虚数」であり、大まかなな数字であって、

かなり遠い距離を単に「万里」と表現したのではないかとというのです。

さらに、それは戸数においても言えます。

邪馬台国の周辺国の戸数は、3万とか5万という数字が平気で出てきます。

それは、同じ魏志東夷伝内に記述がある、

高句麗国(朝鮮半島の北部地域支配)は3万戸との記述を超え、

夫余国(満洲の古代民族とされる)は8万との記述に近づく数字です。

そもそも、上記の夫余国8万も妖しいのですが、

当時の倭国周辺の国が高句麗に匹敵かそれ以上の人口がいたかということです。

これも誇大した数字だというのです。

また、国数についても言えば、倭国内の30余りの国が、魏に朝貢したというのです。

当時、直接、魏に使いを出せる国が果たして相当数あっただろうかという疑問が出てきます。

これも誇大ではないかと言う主張です。

それでは、なぜ、このように誇大した数字を使ったかということです。

 

中国王朝の国家戦略

蜀の産まれ 陳寿

 

魏志の作者・陳寿が仕えたのは、三国時代の次の時代「西晋」王朝の代でした。

「西晋」の前身は「魏」です。

西晋は魏の体制を引き継ぐ形の国家でした。

ですから、魏を仰ぐ姿勢を見せるのは当然です。

結局は、西晋王朝の威厳を高めるためだったということになるのですが、

なぜ、魏志の中の誇大な数字がそれにつながるのかということです。

つまり、こういうことです。魏は大国であり、

魏と同盟を結んだ国も同様に大国であった方が魏の威厳を高められるということです。

魏志を読む、読者たちは、魏は凄い国だという印象を与えることになります。

引いては、後継の西晋も凄い国ということになります。

おそらく、このことは、魏の時代当時でも同じように言えたでしょう。

たとえ、魏志が魏の時代に存在したとしても、タイムリーな記録だったとしてもです。

つまり、魏は東西の大国と同盟して、

国民や敵対関係の国家(「呉」や「蜀」)に対して威信を示そうとしたはずであるというのです。

 

関連記事:陳寿(ちんじゅ)とはどんな人?●●のレッテルを貼られてしまった正史三国志の作者

関連記事:三国志の生みの親であり歴史家の矜持を悩ます歴史書編纂の裏事情

 

何で卑弥呼に親魏倭王の印を与えられたの?

陳寿029

 

そして、卑弥呼がなぜ親魏倭王の印を与えられたか?ということを考えた場合、

以上の事が理由になっているのだと思います。

つまり、魏の国の威信を高めるために利用されたのではないかということです。

東の大国の倭国が、魏に従っているという印象を対外的にアピールできたのです。

さらに言えば、魏はそのうち、倭国を侵略する意図があったとも、清張は古代史疑で主張しています。

それだけ、当時の魏は、東方へ向かう勢いがあったということですね。

また、だからこそ、邪馬台国は、魏に臣従しようとしたと言えるでしょうか。

親魏倭王の印などは、あくまで、魏への隷属の一歩と言えたのでしょう。

それが、倭国にとっては幸運なことにと言えましょうか、

魏の皇帝は、次々と若くして死んでしまい、

果ては、重臣の司馬一族によってその地位を取って替わられ、魏は消滅します。

このような中国王朝内部のゴタゴタで東征の目論見は延期になったでしょうか。

しかし、魏を消滅させた司馬一族が打ち立てた「西晋」が魏を上回る勢いがありました。

「西晋」成立当時、邪馬台国の長は、女王・壱与だったそうですが、

壱与は、新しい中国王朝の西晋に朝貢します。

おそらく侵略の脅威を感じたからということでしょうか。

そして、その西晋が三国時代を終わらせ、中国全土を統一します。

ですが、間もなく皇帝の政治力低下や、権力内部の分裂があって、混乱へと発展します。

その後、中国北部は「匈奴」(きょうど)などの遊牧民族に取って替わられ、

中国北部は「五胡十六国時代」へ、後に中国全土は「南北朝時代」の分裂時代へとつながります。

後の「隋」王朝による統一まで約270年ほど分裂が続くのです。

しかし、その中国の混乱期のおかげで、倭国は中国王朝からの侵略の脅威を逃れたのでしょう。

その隙きに、後の大和朝廷が日本列島全土を掌握できたと言えるでしょう。

話がそれてきましたが、それでは、なぜ清張が北九州説を主張したか言いますと、

まず、魏志に記述されている距離などの数字が当てにならないので、

大陸や朝鮮半島からもっと近くても問題ないということです。

その上で、当時、倭国に瀬戸内海全域を支配できる

強力な国家は存在できなかったのではないかということです。

中国王朝から見れば、倭国はまだ原始国家のような存在で、衣食住のスタイルや質から考えても、

瀬戸内海を頻繁に行き来するのは難しかったのではないかということです。

また、卑弥呼などが仕えたという「鬼道」は、神に憑依されるとか、

お告げを請うなどと、シャーマニズムの一種ですが、特に、

その鬼神を祀るといった「鬼道」的シャーマニズムのようなものは、

当時、朝鮮半島で幾つも見られたらしいのです。

結果、釜山から目視できる距離にある対馬から

比較的遠くない北九州地域に邪馬台国があったと考えれば、

文化の影響も受けやすく、納得がいくのではないかというものです。

さらに、その後登場する、大和朝廷の文化、衣食住などは、

邪馬台国や卑弥呼のそれとは(例えば、入墨、赤い化粧など)

かなり違って見えるのではないでしょうか。

残影がほとんど残ってないと言ってよいのではないでしょうか。

このあたりが清張の、邪馬台国九州説の論拠のようです。

しかし、近年、以下のような発見がありました。

2009年、纏向遺跡、箸墓古墳(奈良県桜井市)に大規模の住居跡が発見されたのです。

この遺跡が邪馬台国の王宮であったのではないか、

また、箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかと言われるようになっています。

これによって、大和説が有力になってきたのです。

ただ、この遺跡の発見は、大和朝廷の前身の勢力の物であり、

当時、九州と大和の2大勢力が日本列島に存在したことを裏付けるとも言われています。

 

関連記事:倭国 「魏志倭人伝」 から読み取る当時の日本、邪馬台国と卑弥呼を分かりやすく解説

関連記事:邪馬台国ってどんな国だったの?まさに神っていた邪馬台国

 

予想される邪馬台国の勢力図

日本地図 f

 

未だに邪馬台国の位置は謎のまま、

論議が交わされている状況ですが、

現時点で考えられる邪馬台国の位置とその領域をの有力な説は以下のようになるでしょうか。

 

⑴北九州の連合王国

⑵大和中心にした西日本連合王国 (その範囲は瀬戸内海ほぼ全域と北部九州まで含む。) 

 

とにかく確実だったのは、倭国は邪馬台国そのものではなかったということです。

倭国連合の盟主として邪馬台国が君臨したということです。

もし、邪馬台国が大和にあったなら、瀬戸内海一帯を押さえた、一大連合国といってよいでしょう。

とは言え、その他の地域に、邪馬台国盟主連合への対抗勢力があったのは確かでしょう。

もし、邪馬台国が北九州地域にあったなら、

それとは別に大和に(特に纏向周辺。奈良県桜井市近辺)

に大きな別政権が成立していたことになります。

そして、どちらにしても、卑弥呼死後、150年後くらいには、

大和朝廷は瀬戸内海、九州地域は確実に手中に収めていたのです。

それが実現できたのも、前述の通り、中国大陸の王朝が揺らぎ、

長く分裂状態にあったからなのも確かです。

 

関連記事:魏のラストエンペラー曹奐(そうかん)魏の最後はどうやって迎える事になったの?

関連記事:三国最強であった魏はなぜ滅びることになったの?【曹操編】

 

三国志ライター コーノ・ヒロの独り言

コーノ・ヒロ

 

7世紀に入り、中国が「唐」王朝となったとき、大化の改新により、

以前よりも盤石になった大和朝廷の勢力が、その頃から国号を「日本」に改め、

朝鮮半島の三国時代の争いの中で、唐王朝と刃を交えますが、大和朝廷勢力は大敗します。

その後、モンゴル民族王朝「元」による日本侵攻と豊臣秀吉による朝鮮侵略の時を除き、

日本は、19世紀末の「日清戦争」の時まで、常に対中姿勢は、敬意を払う朝貢の姿勢でした。

そして、それによって友好と対外的に平和安定を築けたのです。

時代を振り返ると、島国というのは、常に大陸国家の情勢に左右されるもので、

自らのみの力で平和安定を築くのは無理なのかと考えてしまいます。

大陸の中国王朝に始まり、モンゴル王朝の脅威、そして、

その後はヨーロッパのスペイン=ポルトガル勢力に始まり、イギリス、フランス、

そして、現在のアメリカに続くのです。

ただ、その情勢に変化は起きていているように見えます。

過去に大陸で覇を唱えた中国、ロシアの再興も目まぐるしく、

今後の勢力図はどうなるか分からない情勢でしょうか。

今後の日本の島々の安定は再び大陸との結びつきによってもたらされるのでしょうか。

 

参考文献

邪馬台国の考古学(魏志東夷伝が語る世界) 東潮 著 角川選書

邪馬台国の滅亡(大和王権の征服戦争)若井敏明 著  吉川弘文館

マンガ 日本の歴史2巻(邪馬台国と卑弥呼のまつりごと)石ノ森章太郎 作  中央公論社

新訂 魏志倭人伝 他篇(中国正史日本伝①) 石原道博 編訳 岩波文庫

邪馬台国論争 (佐伯有清 著 岩波新書)

古代史疑 (松本清張 著 文藝春秋)

日本書紀 (講談社学術文庫)

 

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関連記事:曹真が余計な事をするから邪馬台国の場所が特定出来なくなった?

関連記事:邪馬台国が魏と外交出来たのは司馬懿のおかげ?

 

—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 




 

コーノ・ヒロ

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