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霊帝は近衛軍創設の為に売官で資金を造った?実は優秀な皇帝の真実

2016年10月31日


 

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霊帝

 

後漢の末期において、桓(かん)帝、霊(れい)帝は後世の歴史から

二大ボンクラ皇帝の烙印を押されています。

 

その大きな理由は、この両名が宦官を重用して政治を丸投げし

強大化した宦官と外戚との抗争が激しくなったからです。

特に霊帝は、三国志演義にも登場する分、その暗君ぶりが際立ち、

悪く言われがちですが、果たして霊帝はそこまで暗君だったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後漢の皇帝を多く輩出した名門河間王家に生まれる

霊帝

 

霊帝は本名を劉宏(りゅうこう)と言い、西暦156年に生まれました。

何と、考えてみると、あの曹操(そうそう)より一歳年下です。

物語の序盤に崩御するので、もっと年上かと思っていました。

 

劉宏は、第3代、章(しょう)帝と申(しん)貴人の間に生まれた

河間(かかん)王劉開(りゅうかい)の系統に連なる名門の出身です。

 

11代の桓帝も、この河間王家の出身であり、彼が子を残さずに死んだ事で

血筋が近い解瀆(かいとく)亭侯劉萇(りゅうちょう)の子である

劉協に皇帝の地位が回ってきたのです。

 

因みに5代皇帝、殤(しょう)帝以後の皇帝は、この河間王家、

渤海(ぼっかい)王家、斉北(せいほく)王家、清河(せいが)王家の

4つの王家から全て出ていて、そのルーツは、3代皇帝、章(しょう)帝に

遡りますがいずれも側室の家柄でした。

 

名門とはいえ、傍流、無名の劉宏が選ばれた理由

霊帝

 

しかし、河間王家とは言っても、繁栄して分家が増えた河間王家では、

解瀆亭侯は傍流だった上、父の劉萇は早くに死んでいました。

劉宏は母と二人、世間の同情と憐れみと侮蔑の視線を受けながら、

王族のプライドだけで、貧しい暮らしに耐えて生活している有様でした。

 

その後ろ盾がゼロの状態こそ、権力争いのライバルを増やしたくない、

桓帝の皇后の竇氏や大将軍竇武には都合が良かったのです。

 

12歳だった劉宏の元には大宦官、曹節(そうせつ)が兵と車馬を整えて現れ、

劉宏と母の董氏は、最低の貧乏生活から抜け出す事になります。

すべては、後ろ盾がなく、貧しい故に転がり込んだ幸運でした。

 

金の亡者の母の助言で霊帝の売官が始まる

女 金

 

西暦168年、12代皇帝、霊帝として即位した劉宏ですが、

皇室の財産は、先代の桓帝が使い尽して空っぽでした。

困り果てる霊帝ですが、そこに貧乏が過ぎて金の亡者になった

母の董氏がアドバイスをします。

 

母「帝、世間では金が無いのは首がないのと同じなどと言います。

本当にお金は尊いもの、、まずは、政府の役職で空いている地位に

値札をつけて売り払って下さいな」

 

霊帝「母上、それは良い事を聞きました、早速そうしましょう」

母「帝、よいですか、商人などは地位を欲しがりますから高値でも売れます。

買う人間の足下を見て、ちゃんと値踏みして高値で売るのです。

買った人間には転売を許し、また在任期間も縮めておしまいなさいませ、、

そうすれば、一つの役職で何回でも儲ける事が出来ましょう」

 

霊帝「それは素晴らしい、母上はお金儲けの達人です!」

 

このような会話があったかどうかは分りませんが、

とにかく霊帝は皇室の倉を満杯にする為に、官位を売り始めます。

これにより、それまではまがりなりにも、影で行われた汚職が、

公に行われるようになりました。

 

こうして、皇室の倉はあっとう間に満杯になります。

もっとも、それは取り返しのつかないモラルの低下と、

王朝の腐敗を代償としたものでした。

 

即位二年目で外戚と宦官の大戦争が勃発

宦官VS外威 三国志

 

霊帝が即位した翌年の169年、外戚の董武(とうぶ)大将軍と

陳蕃(ちんばん)のような清流派の官僚による宦官一掃の計画が起こります。

 

しかし、実力者の董太后が乗り気ではない上に、董武と陳蕃の意見の

食い違いもあり、計画は延びてしまい宦官の情報網にかかり、反撃されます。

両者はお互いに軍を動かし戦いますが、準備不足の董武が不利になり、

結果、戦争は宦官側の勝利に終わります。

 

董武大将軍は自殺、陳蕃は董武の自害に抗議して参内し、

そこで捕まり、即刻処刑されました。

 

宦官側の曹節や侯覧(こうらん)、王甫(おうほ)は、

董武が帝の廃位を企んだと上奏し「霊帝は董武を討て」と勅命を出しますが、

どこまで宦官の言い分を信じていたか不明です。

当時、霊帝は13歳の少年皇帝、宦官の恐ろしさが、この時分ったのか

以後は、宦官の横暴を極力見ないふりをするようになります。

 

相次ぐ、宦官と外戚、清流派官僚の戦いも我関せず・・

宦官

 

その後も清流派と宦官の戦いは続き、ついには党錮(とうこ)の禁にまで発展、

多くの清流派官僚が政界から追放される事態になります。

その穴を埋めるように宦官は、自分達の意のままになる濁流派と

呼ばれる汚職官僚を抱き込んで、事態は深刻さの度合いを増していきます。

 

そんな中でも霊帝は、何事もないかのように宦官に政治を任せ、

宮廷内で商売人ごっこや、西域趣味に凝る贅沢な生活を送ります。

 

関連記事:【よくわかる】SEALDsは後漢時代にも存在した?党錮の禁とSEALDsの共通点

関連記事:【三国志の疑問】どうして宦官は消滅しなかったの?

 

霊帝は宦官の性質を知りぬき、命を守る為に暗愚のふりをしていた?

霊帝

 

そもそも宦官は一代の皇帝に寄生するのが常で、皇帝が自分達を

排除しようとしない限りはそれを殺そうとはしません。

第一、去勢者の彼等は自身が皇帝に即位しても子孫を残せず、

外戚と違って皇帝を殺し、王朝を纂奪するという心配はありません。

 

それに新しい皇帝を即位させて信任を得るのは大仕事だし、

別の対抗勢力も新帝にくっ付いて呼びこむので面倒です。

 

もし、霊帝がそんな宦官の性質を見抜いて、保身の為に

敢えて政治に関心がないふりを続けていたのだとしたら、

霊帝は、まんざら暗愚でも無かったかも知れません。

 

霊帝が執念を燃やした近衛常備軍、西園軍の創設

霊帝

 

金の亡者で女遊びにうつつを抜かした霊帝ですが、

彼には、あまり知られていない隠れた功積があります。

 

それが、西暦188年に、皇帝を守る近衛の常備軍、

西園(せいえん)軍を組織した功積です。

 

それ以前にも皇帝を守る軍隊は、北軍五校士と言い存在はしていますが、

平民の寄せ集めの一般軍と違いは無く、兵の質は低いものでした。

黄巾の乱で漢の正規軍が黄巾軍に敗れる様子に衝撃を受けた霊帝は、

もっと強力で、頼りになる近衛常備軍の創設を考え実行に移します。

 

世に言う、西園八校尉がそれで、その役職とメンバーは以下の通りです。

 

上軍校尉:小黄門の蹇碩(けんせき)、中軍校尉:虎賁中郎将の袁紹(えんしょう)

下軍校尉:屯騎校尉の鮑鴻(ほうこう)典軍校尉:議郎の曹操(そうそう)

助軍左校尉:議郎の趙融(ちょうゆう)、助軍右校尉:議郎の馮芳(ふうほう)、

左校尉:諫議大夫の夏牟(かぼう)、右校尉:諫議大夫の淳于瓊(じゅんうけい)

 

さらに霊帝は、自らを無上将軍と称して常備軍のトップに立ちます。

その上、後漢書の何進(かしん)伝によると、

霊帝は、ただ西園軍を造って終わりではなく自ら鎧を来て、馬にも鎧を着せ、

西園八校尉と何進を率いて軍事演習にも臨んでみせる気合の入れようでした。

 

このようなケースは他の後漢皇帝では例がなく、或いは霊帝、

今風に言えば、ミリオタだったのかも知れません。

 

霊帝は再び黄巾賊のような賊が出現した時に備え、1万人規模の西園軍を想定、

その資金として売官で蓄えたお金を使い、配下の大将軍何進に命じて、

全国各地から兵を集めるように指示しています。

 

しかし、創設から1年足らずで霊帝は病に倒れ、33歳で崩じたので、

西園軍も自然消滅してしまいました。

 

関連記事:皇帝には、二つの名前があった!?諡号(しごう)とは何?

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

皇帝を守る近衛軍、西園軍の構想は、その将軍の一人だった

曹操により魏の近衛軍としてよみがえります。

以後、歴代の王朝は、必ず近衛兵を置きますが、そのパイオニアは、

暗君と呼ばれた霊帝だったのです。

 

元々、霊帝は芸術家肌で良く言えば凝り性、悪くいえば、オタクで

西域趣味でも何でも、ただ珍品を並べて悦に入るような成金趣味ではなく、

鑑賞に耐えられるレベルに高めるなど一流の趣味人でした。

 

近衛軍にも、並々ならない凝り性の性格を発揮して、熱心に組織を練り

それ故に曹操も感心して、その構想を引き継いだようです。

 

保身の為に、或いは、本当に政治に関心がなく、政治の混乱を招いた霊帝、

しかし、その凝り性の性格が少しでも政治に向けられていたら、

漢は、あのように無残に崩れなかったかも知れません。

 

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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はじめての漢王朝

 

 

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