西暦210年当時、荊州の南郡に本拠地を置いていた劉備(りゅうび)は八方塞がりの状況でした。荊州の北、襄陽や樊城は曹操に押さえられていて、拠点としている荊州の南も孫権(そんけん)から借りている状態です。
益州(蜀)攻めの道
領土を広げるには西の益州への道しかありませんでしたが、益州は長江の上流に位置し、周囲を高い山脈に囲まれた天然の要塞です。水軍があれば長江を遡って巴郡から攻め込むことができますが、当時の劉備軍にはそこまでの備えはありません。山岳地帯での戦いにも不慣れで、強行に攻め込めば長期間の苦戦を強いられることになり、その隙に本拠地を曹操や孫権に奪われることは明白でした。
天下三分の計を提案した諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)ですら手の打ちようがなかったのです。つまり「絵に描いた餅」状態でした。このとき益州制覇に一番近かったのは呉の孫権(そんけん)です。最強の水軍を有していたからです。しかし益州攻略を目指し長江を遡っていた周瑜(しゅうゆ)が病死し、計画は頓挫します。
益州という要塞
益州は広大な領土です。日本の面積の約1.5倍といわれています。さらに、敵を防ぐことを考えると最強とも呼べる天然要塞となっています。日中戦争時には蒋介石がこの地で戦い抜きました。歴史上、独立勢力がここで多数誕生しています。後漢末期に益州の牧になった皇族出身の劉焉も同様の野望を秘めて益州に来ました。黄巾の乱や董卓の暴政により中原から多くの流民が益州に押し寄せると、これ幸いと、劉焉は彼らを「東州兵」と名付けて兵役につかせ、軍備を拡大したのです。劉焉の跡を継いだのがその息子である劉璋でした。暗愚な人物として家臣にも見限られていますが、侵攻してくる敵勢力を食い止めるだけの兵力と領土は有していたのです。
張松の離反
劉璋の誤算は配下に見限られていることに気が付かず、敵となる劉備を領内に入れてしまったことです。劉備を先導していたのが劉璋の配下、別駕を務めていた張松であり、その息のかかった法正や孟達でした。張松はどうしても劉備に益州を治めてほしかったようで、益州の人口や兵力の配置図などの詳しく書かれた地図を劉備に献上しています。張松は風采が貧相で、あの人材登用の天才である曹操をしても相手にしなかったような外見でした。張松の才に気が付いた曹操配下の楊脩の進言にも耳を傾けませんでした。
どうやら益州での扱いも同じような不平等なものだったようで、張松には日ごろの不平不満が溜まっていました。曹操に益州を治められても同じような扱いを受けるだろうと予想した張松は、ぞんざいな態度を見せて曹操に追い払われます。そして帰り道で劉備のもとを訪れることになるのです。
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類が友を呼ぶ
使者・張松の相手をしたのが劉備の配下にいた龐統(ほうとう)でした。諸葛亮孔明と並んで「鳳雛」と呼ばれるほどの知恵者でしたが、張松同様に見ばえが悪く態度も横柄なために扱いは低く、従事という軽職に甘んじていました。同じような境遇のふたりは意気投合し、益州乗っ取り作戦を企てます。これまで振るわなかった人生の大逆転劇をふたりで夢見たのかもしれません。仁義に劣る作戦はすべて劉備に拒否されるものの、最終的にはふたりの思惑通りに劉備は益州を征服することになります。
しかし龐統はこの軍事作戦中に戦死しています。劉備はその死を嘆きましたが、諡号はその死の約50年後に劉禅より贈られています。また、張松はそれより先に内応が劉璋にばれて処刑されました。ふたりは共に劉備の益州征服を見ることなくこの世を去るのです。軍事作戦の後を継いだのは諸葛亮孔明と法正のふたりでした。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
張松なくして劉備の益州攻略は始まっていなかったことでしょう。張松は益州攻略のきっかけとして重要なカギを握っています。仮に張松と法正(ほうせい)が敵対関係だったとしても主君に重用されていなかった法正は出る幕がなかったのではないでしょうか。そして劉備は多大な犠牲を払いながらも益州を征服できたはずです。もちろん、「軍師連盟」の主役・司馬懿(しばい)に匹敵するような知略に優れた法正も内応に応じてくれたお陰で、劉備は大きな犠牲を払うことなく益州を攻略することができました。その点だけを考えると法正の存在も大きいものがあります。しかし諸葛亮孔明からすれば、八方塞がりだった益州攻略のきっかけを与えてくれた張松(ちょうしょう)の存在こそが最も価値のあるものだったと思います。そう考えると、張松(ちょうしょう)の離反は、三国志のなかでの裏切りとしては最も大きな事件だったのかもしれません。
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