関羽(かんう)を死なせない策は非常に単純明快です。
劉備が荊州を孫権に返却すればいいだけです。
関羽の参謀に誰をつけるべきかという問題以前に、
劉備が曹操討伐・漢室復興だけを考えた戦略を選択すればいい話ではないでしょうか。
劉備は欲をかいて、益州という本拠地を得ながら借りていた
荊州を孫権に返却しないから余計な火種を作ってしまい、
義弟の関羽と荊州のふたつを同時に失うことになるのです。
関羽が大人しく荊州を孫権に返却しただろうか
そこでひとつの疑問が生まれてきます。
あのプライドの塊、頑固一徹、武門の頂点にいる関羽が主君の命令とはいえ、
命がけで得た領地をおめおめと孫権に渡すのか、という問題です。
まず無理でしょう。
仮に諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が使者として荊州を訪れても、
関羽は絶対に折れなかったに違いありません。
つまり荊州を守る総大将に関羽を任じた時点で結果は見えていたことになります。
関羽以外に荊州を守ることはできたのか
では、関羽以外の誰に荊州を守らせることができたでしょうか。
この場合、まず名前があがるのは黄忠(こうちゅう)と魏延(ぎえん)です。
もともとこの荊州の地に住んでいたわけですから土地勘も人脈もあります。
武勇においても問題はありません。しかしあまりに新参者すぎて信用がありませんでした。
ふたりが武功をあげて、劉備に認められるのは益州攻めに成功してからです。
かといって趙雲に政治面で期待するのは難しいですし、張飛が治めたらそれこそ反乱が起きかねません。
やはりここは関羽しかいないのです。
益州占領が本当に可能かどうかわからない状態で、
本拠地たる荊州の守備は何にもまして大切な役目でした。
その役目が担えるのは劉備の旗下では関羽だけだったのではないでしょうか。
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上庸に張飛や趙雲を送る
関羽が江陵から北の曹操領である樊城を攻めたとき、
それに呼応して漢中から出撃した孟達と劉封が西の上庸を落とします。
このとき敵の降将の伸耽と伸儀を劉備はそのまま用いてそれぞれ太守に任じていたために、
孟達と劉封は関羽からの援軍の要請に応えられなくなるのです。
伸兄弟が裏切り、上庸が曹操に落ちれば隣接する漢中にいる劉備の命が危なくなるからでした。
結局、関羽は敗れ、伸兄弟が曹丕に内通したために孟達は漢中への退路を断たれて魏に降ります。
この重要拠点に張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)がいたら話はどうなったのでしょうか。
猛然と襄陽の脇を抜けて樊城の関羽のもとに馳せ参じたかもしれません。
ただし、孟達がこの地に送られたのには理由があります。
荊州の襄陽からこの上庸までは漢水を遡るか、険しい山岳地帯を踏破するしかないのです。
孟達の兵は山岳の戦闘に慣れており、
長江沿いの秭帰から上庸までの山岳地帯をわずか十日で踏破した実績がありました。
つまり劉備の配下のなかで最も山岳戦闘に慣れていたのが孟達だったわけです。
その孟達をしても援軍派遣を諦めたわけですから、
張飛や趙雲がいても何もできなかったかもしれません。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
人材も兵力も不足している劉備軍において、結局のところこの布陣が限界だったわけです。
稀代の軍師である諸葛亮孔明が助言しての配置ですからこれ以上の最善の策はなかったのでしょう。
それでは関羽を助ける道はなかったのでしょうか。
唯一だけ打開策があるとしたら、劉備自ら荊州に出向き、
荊州の返却を関羽に伝えることだったのではないでしょうか。
関羽が討ち死にし、そのかたき討ちに劉備自らが大軍を率いて出兵したことを考えるとそのほうがよっぽど楽な話です。
問題は劉備にせよ、関羽にせよ、領地を明け渡すという武人として
恥ずべき行為をここでもまだできたのかということだけだったと思います。
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