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【シミルボン】残念、五虎将軍になった時にはピークを過ぎていた馬超

2017年1月19日


 

シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。

 

馬超仲間入り

 

馬超孟起(ばちょう・もうき:176~222年)は、

三国志ファンには、言わずと知れた蜀の五虎大将軍として有名な武将です。

その武勇は張飛と五分、戦術でも曹操を後一歩まで追い詰めるなど抜群!

また、美しい容姿をしており錦の馬超と美称されていました。

 

ところが、史実の馬超を見ていると、劉備(りゅうび)の配下になった頃から

あまり活躍していない事が分ります。

 

なんだか鳴り物入りで巨人に入団したメジャーの助っ人外国人が

大した成績も残せず帰ってしまう、あの感じにそっくりなのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操に反旗を翻した馬超の輝かしい半生

馬超 許褚

 

馬超は、関中の軍閥、馬騰(ばとう)の嫡男として産まれました。

関中は長安の周辺地域で、後漢の末には複数の軍閥が割拠して

度々、戦乱を巻き起こし火薬庫ぶりを示していた地域です。

 

馬超は、早くから父について戦場を走り回りますが、

関中は、やがて曹操(そうそう)の支配下に入り父の馬騰は曹操の命令で

西暦208年、衛尉(えいい)に任命され、軍を解いて曹操の本拠地鄴(ぎょう)に

一族を引き連れて移動します。

 

馬超も誘われますが拒否し、馬騰の地盤を引き継いで関中に残りました。

しかし、西暦211年、曹操は関中の西の漢中の張魯(ちょうろ)を

征伐する計画を立てます。

 

その際に関中の軍閥が張魯に付かないように曹操は、

馬超にも人質を出すように命令します。

 

「もしや、曹操は張魯を滅ぼしたら自分達も滅ぼすつもりでは」

曹操の命令に疑心暗鬼になった馬超は、元の父の盟友である韓遂(かんすい)と

手を組んで関中の軍閥達とも手を結び、曹操に反旗を翻しました。

 

曹操を一度は追いつめ、歴史に名を刻む馬超

曹操 朝まで三国志

 

羌(きょう)族や氐(てい)族のような遊牧民族を味方に加えた

馬超は優勢な機動力を活かして曹操を翻弄し、一時期は、

後一歩で曹操を討ち取る寸前まで行きます、しかし、健闘もここまででした。

 

曹操は、軍師賈詡(かく)の計略で馬超と韓遂の仲を裂きます。

これにより、鉄の結束を誇っていた連合軍に亀裂が生じてしまい、

その隙を突いた曹操の攻撃で馬超は撃破され連合軍は崩壊します。

 

馬超は諦めず、翌年、曹操が東に戻った隙を突いて

涼州刺史、韋康(いこう)を殺し冀城を本拠に再び遊牧民を纏めて挙兵します。

曹操軍の、楊阜(ようふ)、姜敍(きょうじょ)は鹵(ろ)城に籠り抵抗すると

馬超は、それを討ちにいきますが、その間に冀城で政変が起きてしまい、

馬超は冀城に戻れず鹵城も落せず、進退極まり、漢中の張魯(ちょうろ)を

頼って落ちていきます。

 

落ちぶれた馬超、ついに劉備を頼って落ちる

馬超

 

曹操の脅威を抑える為に馬超を迎え入れた張魯ですが、

馬超は、失地回復の為に兵を借りては曹操軍に攻撃を仕掛け

失敗してしまいます。

 

やがて、路線対立は深刻になり、張魯からも厄介者として

扱われるようになった馬超は、当時、益州の劉璋(りゅうしょう)と戦い、

成都を包囲していた劉備から味方にならないか?と

誘われたのを幸いに、張魯の元を離れて劉備に帰順したのです。

時に西暦214年の事で、馬超は落ちぶれたどん底の身でした。

 

劉備はどうして、馬超を優遇したのか?

朝まで三国志 劉備

 

馬超は劉備に帰順した後、大した手柄を残していません。

大体、馬超が蜀で実働した期間は8年に過ぎず、

西暦222年には、病を得て47歳の生涯を閉じています。

主君劉備よりも1年早く、人生を終えているのです。

 

にも関わらず劉備は、馬超を驃騎(ひょうき)将軍に任命し

涼州牧を兼務し、斄郷(りごう)侯に封じています。

驃騎将軍というのは外戚か国家の元勲が就任する最高の将軍位です。

どうして、大した手柄も立てていない馬超に対して、

このような優遇をしたのでしょうか?

 

参考文献:正史 三国志著者: 井波 律子/陳 寿/裴 松之

/小南 一郎/今鷹 真 出版社: 筑摩書房

 

シミルボン

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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