三国志の中で一番人材の登用に熱心だった曹操。
彼は群雄割拠の時代から色々な熱心に人材を探し求めており、
品行方正でなくとも能力さえあれば敵でさえ用いておりました。
曹操が用いた品行方正じゃない優秀な人材達の一例として、
赤壁の戦いにいれば負けることがなかったと言わしめた郭嘉(かくか)。
元村の護衛団の一味であった許褚(きょちょ)。
兵士からの叩き上げである楽進などがおります。
また曹操は敵であった者でも能力さえあれば用いており、
張繍の軍師であった賈詡(かく)や張飛と互角にやりあった張郃(ちょうこう)などがおります。
このように優秀な人材が大好きであった曹操ですが、
魏の国家を作り上げると優秀な人材を募集すると同時に教育機関を整備して人材育成に
励んでおりました。
今回は曹操が実施した政策である教育機関と人材募集の面をピックアップしてみたいと思います。
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優秀な人材には褒美を与え、実績がない者には罰を
曹操は河北で袁家討伐戦を完了した後、戦功のあった諸将に褒美を与えます。
この時に抜群の戦功を上げた人材に選ばれたのは袁家討伐戦で勲功のあった武将達ではなく、
後方支援や武器・兵糧の補給を行っていた文官・荀彧でした。
諸将は荀彧の補給の手際良さと曹操軍の古参であることから不満を漏らすことが
なかったそうです。
曹操は諸将に褒美を与えた後、戦功のなかった者達に対して
「国家において君主の命令は絶対である。
また君主が命令した以上一定以上の成果を上げずに、
のうのうとしている者達へ罰則を与えないのは、戦場で命懸けで働いている武将や
後方支援で活躍している文官達、戦場を組み立てている参謀達に対して礼を失している。
そこで今後我が軍で私が下した命令において一定以上の成果を上げない者達を処罰する。」と
お触れを出します。
この結果、曹操から命令を受けた人物達は成果を出すために必死に働いていくことになり、
もし成果を上げることができない人物が出現すれば、有無を言わさず罰せられることになります。
第一段階:能力ある者を召し抱える求賢令
曹操は赤壁での戦いで受けた損害を回復させるとともにある政策を布告。
その政策は求賢令(きゅうけんれい)です。
彼は布告した際に春秋時代の名宰相で管仲(かんちゅう)や漢の謀臣として劉邦を助けるも
賄賂を受け取っていた陳平を引き合いに出した後
「唯だ才をばこれ挙げよ、我得てこれを用いん」と示します。
この求賢令によって犯罪者や品行方正、賄賂を受け取っていた人でも才能をもってすれば
曹操に仕えることができるようになります。
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第二段階:召し抱えるだけでなく、人材教育制度を整える
曹操は有能な人材であれば、犯罪者でも品行方正でなくても、賄賂を受け取っていた者でも
召し抱えると全国に布告。
さらに彼は魏国の各県に「戦に明け暮れ、ようやく我が国には戦が無くなった。
しかしこの動乱によって仁義・礼などを知らずに育ってきた者がた多くいるであろう。
そこで私はこれらを教育する場所を建設し、優秀な人材が育ってるように」と
教育制度を整えるように布告します。
この結果、曹操が領有している各県では公費で教育する場所(現在でいう学校)が建設され、
特に優秀なものは仕官することになっていきます。
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三国志ライター黒田レンの独り言
曹操のこの二段構えの政策によって多くの有能な人材が魏国で仕官することになります。
求賢令に応じて仕官してきた人材が曹操の時代や曹丕(そうひ)、曹叡(そうえい)の時代にまで
活躍することになり、魏国の安定をもたらすことになるのです。
この曹操の政策がなければ蜀や呉を圧倒し続けることは難しかったのではないかと
レンは考えます。
参考文献 講談社 乱世の英雄 尾崎秀樹著など
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