陶謙はどうして劉備を後継者にしたの?三国志の素朴な疑問に答える

2017年1月26日


 

藏覇と陶謙

 

 

徐州牧の陶謙(とうけん)には、陶商(とうしょう)、陶応(とうおう)という

二人の息子がいましたが、いずれもボンクラであるとして継がせず、

他所者の劉備(りゅうび)に徐州を継がせます。

それは、それで美談めいていますが、リアルな話、苦労して築きあげた地位を

あかの他人に譲るなんて、いくら大昔でも考えにくくないですか?

そこで、はじさんでは、陶謙が劉備を後継者にした理由を考えました。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陶謙が劉備を後継者にした理由1 自分の若い頃に似ていた

陶謙

 

陶謙は、三国志演義では、温厚な老人ですが史実では、

勇猛バリバリの軍人出身の人物でした。

呉書によれば、陶謙の父は餘姚(よとう)県長でしたが若くして死に

陶謙は孤児になり、最初は乱暴者として名を知られます。

14歳になるまで帛で軍旗を造って竹馬に乗り合戦ごっこをしていて、

それに周囲の子供は従っていたと書かれています。

 

しかし、それを見た餘姚県の金持ちの甘公という人が

陶謙を気に入り車に乗せて色々話をするや、

ますます気に入って、自分の娘を嫁にやると言いだします。

甘公の妻は不服で、あんな合戦ごっこばかりしている男に、

大事な娘を与えるのですか?と文句を言うと、甘公は、

陶謙は奇相をしていて今に出世すると答えています。

 

陶謙が孤児の境遇から這い上がれたのは、

この甘公の財力があっての事でしょう。

 

劉備も早くに父を失い、叔父の劉元起の援助でお金を出してもらい、

盧植(ろしょく)の門下生になっていますが、あまり勉強せずに、

着飾った服を着て、音楽やドッグレースに夢中になり、

遊侠の徒と交わったりしています。

 

劉元起の妻は不服で、幾ら一族でも家計は別なのに、

どうして劉備の学費まで出すのか?と不満を言いますが、

やはり劉元起も、劉備は見所があるという一点張りでした。

 

早くに父が亡くなった点や遊侠の徒と近い点、人に見出されて

世に出た点は共通点があり、陶謙は、若い劉備を昔の自分と

重ね合わせて考えていたのかも知れません。

 

陶謙が劉備を後継者にした理由2 一流の人物の推挙

孔融

 

幾ら境遇が似ていても、それだけで州牧の地位までは譲りません。

劉備には、さらに追い風がありました。

当時の名士が劉備を後継者とするように陶謙に推挙していたのです。

 

それは孔子の子孫としてリスペクトを受ける北海国の相、孔融(こうゆう)

徐州の大金持ちの別駕、縻竺(びじく)、そして校尉の陳登(ちんとう)でした。

孔融が劉備を推すのは意外のようですが、孔融は、かつて、

都昌で黄巾賊の管亥(かんい)に包囲されて死にかけた時に、

平原国の相だった劉備の援軍で救われた恩義がありました。

 

そこまで言って委員会04a 孔融と禰衡

 

孔融が、それを返そうとしたのかどうか分りませんが、

禰衡(でいこう)の件といい、エコヒイキ満載の孔融の人材推挙なら、

劉備をベタ褒めしただろう事は想像に難しくありません。

 

孔融、縻竺、陳登の劉備推しは、今後の事も考えて

陶謙が充分考慮するに値する事だったと言えるでしょう。

だって、拒めば、彼等の助力が今後望めなくなるリスクを

覚悟するという事になるからです。

 

 

陶謙が劉備を後継者にした理由3 袁術への反感

袁術

 

元々、陶謙は公孫瓚(こうそんさん)を通じて、

袁術(えんじゅつ)サイドに立っていましたが、

袁術が匡亭の戦いで曹操(そうそう)に盛大に負けてからは距離を置き、

長安に貢物を送って李傕(りかく)郭汜(かくし)と友好関係を保ち、

むしろ反袁術の立場になっていました。

 

上で劉備を推挙した、3名の中で、孔融は漢室の忠臣の立場から

反袁術でしたし、陳登は袁術がどう懐柔しようが頑固に反発し

最終的には曹操についてしまいます。

 

もちろん徐州には、袁術のシンパである曹豹(そうひょう)や

許耽(きょたん)がいましたが、全体としては反袁術の空気が強かったのです。

一方の劉備は、最初、徐州牧就任を断り

「ここは四世三公の袁公路殿が相応しい」と言いますが、

ここぞとばかりに、孔融と陳登が

「袁術は馬骨、自分勝手、ロクデナシ」等と劉備に吹き込んでいる点からも、

徐州で反袁術の空気が強かったという事が分ります。

 

病身の陶謙に袁術との関係を修復する時間はなく、

そんな事をすれば、徐州が分裂する恐れもある以上は、

反袁術派の推す劉備を立てるより手はないと考えたのでしょう。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

陶謙があかの他人の劉備を徐州牧に推したのは、元より、

劉備の人徳を慕ったのではなく、劉備を推した反袁術の面々の

変わらぬ協力を取り付ける為という面が強かったようです。

人情としては、血縁者に州牧を継がせたくても強敵満載の今は

そんな呑気な願望は出せなかったのでしょう。

 

まあ、そうまでして劉備に徐州牧を継がせたのに、

すぐに呂布(りょふ)に徐州を乗っ取られるとは

陶謙も思いもしなかったでしょうけどね。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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