コーエーのシュミレーションゲーム「三国志」。
私もヘビーユーザーのひとりですが、群雄割拠の時代からゲームを始めると、
だいたい「姜維(きょうい)」が登場する頃には天下を統一し、ゲームは終了しています。
なので、姜維は自分にとってはレアなキャラクターです。
姜維は西暦202年の生まれなので、西暦217年以降に在野の士として出現します。
ゲームでは能力値が軒並み高く、ビジュアルも優れているためとても人気のある武将です。
今回はそんな蜀の後期を支えた勇将・姜維に迫りたいと思います。
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転職した姜維
姜維はもともと魏の武将です。
あの趙雲とも一騎打ちをして互角に渡り合った実力の持ち主です。
しかし、蜀の軍勢に囲まれて降伏し、
以後、諸葛亮孔明に才能を認められて後継者として育成されています。
トップハンティングとは言い過ぎですが、蜀が魏から引き抜いた数少ない人材のひとりといえます。
しかし、姜維のこの境遇が後の蜀の衰退につながっていくことになるのです。
蜀のひとたちの価値観
蜀の人材の構成は多様です。
劉備とともに北から移り住んできたもの。
荊州から移り住んできたもの。もともと益州に住んでいたもの。
それらを劉備や諸葛亮孔明が苦心の末にまとめていたのが蜀という国です。
イメージ的には多様な人種で構成されている現在のアメリカ合衆国のようなものですね。
劉備の蜀建国の志は、魏を倒し、漢を復興させるというものでしたが、
末端までその志がいきわたっていたわけではありません。
むしろ魏に賛同するものたちも多くいました。
例えば「仇国論」を訴えていた名士・譙周(しょうしゅう)。
彼は諸葛亮孔明が推し進める北伐に対しても異を唱えています。
価値観の相違から互いにいがみ合うことも多く、
この姜維と張翼、姜維と楊戯(楊儀とは別人です)などの不和は蜀志の伝にも記載されています。
他にも諸葛亮孔明と黄元や、楊儀と劉巴、魏延と劉琰などあげればきりがありません。
なかなか一枚岩になれないことが、蜀の最大の弱点でした。
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カリスマ無きあとの蜀
劉備や諸葛亮孔明といったカリスマ的存在を失った蜀は、
家臣たちが互いに足の引っ張り合いをし、内紛が絶えません。
この事態に対して二代目の皇帝である劉禅は何もできていません。
むしろ姜維と仲の悪い宦官の黄皓を重用する始末です。
もともと益州に住んでいた住民たちは北伐のための負担に苦しんでいました。
終わることのない北伐に疲弊し、蜀建国の志は、
幹部たちにとってもお題目くらいなものに成り下がっていたのです。
諸葛亮孔明の意志を継いだ姜維は、
世論の空気を無視し、ただひたすらに建国の志を遂げようと邁進します。
しかし魏から移ってきた姜維に賛同するものは少なかったと云われています。
姜維は孤独な戦いを強いられることになっていったのです。
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蜀の滅亡
西暦262年、魏の最大権力者となっていた司馬昭(しばしょう)は蜀を滅ぼすべく、
鄧艾、諸葛緒、鍾会ら約十六万の軍勢で漢中に三道から攻め込みます。
姜維は巧みに兵を動かし剣閣で諸葛緒と鍾会の軍勢を食い止めます。
しかし鄧艾が厳しい山越えを行い剣閣と成都の間、江油まで進軍するのです。
驚いた成都の劉禅は譙周に説得されて降伏します。
姜維は仕方なく鍾会に降伏することになりました。
ただし、姜維はまだ挽回の策を模索していました。
司馬氏の専横を訴え、鍾会に蜀で独立するよう説得を試みるのです。
野心家の鍾会はその口車に乗りましたが、
魏の他将で反乱するものが出て、鍾会ともども姜維も斬殺されてしまいます。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
ちなみに成都を攻略した鄧艾は鍾会の罠にはまり捕らえられ、どさくさのなかで殺されています。
鍾会、姜維も死に、魏の司馬昭(しばしょう)だけがほくそ笑んでいたことでしょう。
司馬昭は今後邪魔になるであろう野心家たちを一挙にすべて滅ぼしたのです。
よって、この陰謀の黒幕は司馬昭ではなかったのかとも云われています。
姜維も鍾会も司馬昭の手のひらの上で踊らされていたわけです。
姜維にとって、とても無念な最期だったのではないでしょうか。
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