五虎将軍として活躍しながら、劉備(りゅうび)の主騎(旗本)という立場であった為
大きな手柄には恵まれなかった趙雲子龍(ちょううん・しりゅう)。
しかし、真面目に勤めていれば、きっと誰かが見ていてくれるという言葉通り
趙雲は死んで、数十年経過した西暦261年、順平侯として顕彰される事になります。
そこには、趙雲有難う!という感謝の念が満ちていたのです。
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この記事の目次
劉禅からの感謝の言葉、あなたのお陰で生き延びる事が出来た
劉禅(りゅうぜん)は、まだ阿斗(あと)と呼ばれていた赤ん坊時代、長坂の戦いで
趙雲の懐に入れられ、曹操軍の追撃を免れて助かった経験をもっています。
そこで、趙雲を顕彰するに辺り、以下のような詔を出しました。
「趙雲は昔、先帝(劉備)に従い、功積が著しかった、朕は幼少の頃に、
大きな困難に遭ったが、趙雲の忠誠に縋り、それを切り抜ける事が出来た。
諡(おくりな)とは元勲を叙する為のものであるが、世の人々は、皆、
趙雲に諡号を与えるのが妥当であると話し合っている」
長坂の戦いでは、赤子だった劉禅は、それでも趙雲への感謝を忘れず
顕彰すべきであると提案しているのです。
姜維達、重臣の言葉 死んだ趙雲はきっと満足するでしょう
それを受けて、姜維のような重臣は協議し、以下のように返答します。
「趙雲は昔、先帝に従い、その功積は顕著、天下を駆けずり回って
労苦を惜しまず法令を破るような事もありませんでした。
その事は特筆すべきものであり、充分顕彰に値するでしょう。
ましてや、長坂の役で陛下を守りぬいた忠義は、硬い金石も貫く程です。
陛下は、その趙雲の忠義に恩賞を用いて報われようとしておられますから、
もし、死者に知覚というものがあれば、趙雲は、この事に満足するでしょう。
そして、生者においては、一命を投げ打ち、恩義に報いる事でしょう」
姜維は、最晩年の趙雲を知っている筈なので、趙雲を偲び、死者に知覚があれば
つまり、あの世というモノが存在し趙雲の霊魂が、この事を知ることが出来れば
きっと満足する事でしょうと結んでいます。
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趙雲に贈られた順平侯の意味とは?
趙雲に贈られた順平侯とは、どういう意味なのでしょうか?
まず、順とは、従順、賢明、辞愛、恩恵の4つの性質を示していて、
平は戦禍と動乱を平定する事を意味しています。
つまり順平侯とは、従順にして賢明であり、慈愛と恩恵を施す心の広い人で
その力は戦乱の世を平定するのに大いに役立ったという意味なのです。
まさに趙雲の貢献に対する最大限の賛辞といえるでしょう。
この頃、蜀漢で功臣を顕彰するブームが起きていた・・
実は蜀漢においては、亡くなった功臣を顕彰するのは余り盛んではなく
劉備の時代には、ただ法正(ほうせい)だけが翼(よく)侯として顕彰されただけでした。
劉備の没後は、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)が国を支える功積が
偉大であるとして没後に武侯として顕彰され、その後は孔明の後を継いだ
蔣琬(しょうえん)が恭(きょう)侯、費禕(ひい)が敬(けい)侯として
それぞれ顕彰されました。
西暦258年には、陳祇(ちんし)が劉禅に愛された事で忠(ちゅう)侯として顕彰され、
260年には、一挙に五虎将軍の4名、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、
黄忠(こうちゅう)、馬超(ばちょう)がそれぞれ壮繆(そうびょう)侯、
桓(かん)侯、剛(ごう)侯、威(い)侯と諡号され顕彰されています。
趙雲の顕彰はその翌年ですが、どうして顕彰ラッシュが起きたか?と言えば
やはり、度重なる負け戦で蜀漢の士気が落ちていた事があります。
ここで過去の名将を顕彰する事で落ちた士気を高めて国を引き締めたい
そのような政治的な意図があったのでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
政治的な意図があるとしても、趙雲への感謝の念が嘘である事にはなりません。
具体的に趙雲の顕彰について書いてあるのは、趙雲盛りで知られる趙雲別伝ですが
趙雲が261年に諡号を受けたのは事実です。
そして正史には、当時の世論は、それを栄誉であると見ていたとあるので
趙雲が名将であった事は疑いようがなく、当時の蜀人も認めていた
事実であったと言えるでしょう。
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