毌丘倹(かんきゅうけん)とはどんな人?朝鮮半島に進出し倭も吸収合併を目論んでいた?

2017年4月17日


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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・朝鮮半島の歴史」のコーナーです。

 

 

 

三国志「正史」を編纂した陳寿に「ずばぬけた才能と見識」と絶賛されたのが、魏の毌丘倹(かんきゅうけん・ぶきゅうけん)です。明帝(曹叡)に可愛がられ、出世していきます。荊州の刺史→幽州の刺史→豫州の刺史→揚州の刺史と歴任しました。

 

凄い転勤ぶりですね。彼の功績はなんといっても朝鮮半島北部の鎮圧です。現代では北朝鮮の動向が大きな問題になっていますが、アメリカや中国が何をしようともなかなか解決しません。おかげで地政学リスクが生じてドル安になる始末です。

 

4月の1週目には米中首脳会議がありますがどのようになるのでしょうか(執筆時はまだ4月3日ですのでわかりません)。トランプ大統領がまた余計なことを言いそうですね。と、いうことで今回は朝鮮半島問題に詳しい毌丘倹の活躍に注目していきましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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遼東の支配者・公孫氏と高句麗

 

西暦238年、遼東を支配していた公孫淵(こうそんえん)司馬懿(しばい)が打ち破ります。この年はちょうど邪馬台国から卑弥呼の使者が訪れていたとされています。燕王を称する公孫淵を滅ぼすのに魏に協力したのが高句麗です。

 

高句麗は以前に公孫氏に負けて服従していました。そのとき都を丸都(現在の中国と北朝鮮の国境付近)に移しています。しばらくはおとなしくしていましたが、公孫淵が滅ぶと高句麗は盛んに魏の領土を侵略するようになりました。高句麗は以前に呉に朝貢した経歴があります。魏としてはもはや許してはおけない存在になりました。そこで高句麗討伐を任されたのが毌丘倹です。

 

 



高句麗との戦い

 

毌丘倹は公孫淵の討伐に武功があり、安邑侯となっています。司馬懿は公孫淵を討つと凱旋しましたが、毌丘倹は遼東に留まり、さらなる異民族の平定を任されます。

 

西暦246年2月に毌丘倹は高句麗の都・丸都を攻めて陥落させました。(西暦244年という説もあります。この2年の開きはどこからくるのでしょうか)毌丘倹はさらに部下の王頎に追撃を命じます。高句麗の王は第11代目の東川(宮)です。東川王は沃沮を南に逃げます。

 

さらに東川王の腹心が魏に偽りの投降をし、敵方を混乱させて王の逃亡を助けました。高句麗はこうして滅亡を回避したのです。毌丘倹もこれ以上の追撃を諦めます。ちなみに高句麗は第15代美川王のときに復讐に転じました。三国志では晋がすでに天下を統一していますが、西暦313年、高句麗はその晋を攻めて楽浪郡を占領しています。

 

 

司馬師への反乱

 

話は戻りますが、高句麗を撃退した後、毌丘倹は魏の重臣として都督となります。そして西暦252年、鎮南将軍・豫州刺史として、呉の皇帝・孫権の死に乗じて攻め込むのです。ここは敵の総大将・諸葛恪の奮戦によって敗北します。

 

しかし西暦253年、今度は合肥に攻め込んできた諸葛恪を迎撃し、さらに追撃して成果をあげました。この年に諸葛恪は呉国内で誅殺されています。そして毌丘倹もまた司馬氏の専横に対して反乱を起こして征伐され、西暦255年に亡くなりました。毌丘倹の反乱にショックを受けた司馬師もまた毌丘倹征伐後の同年に病没しています。

 

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三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂さん

 

三国志の後半に登場するのであまり馴染みのない毌丘倹ですが、こうしてみるとかなりの活躍をしているのです。朝鮮半島の南部まで平定できればさらに注目を集めていたのでしょうが、呉の孫権がいたために呼び戻されて、戦力として期待されています。

 

それがなければ毌丘倹の兵は倭まで攻め寄せていたかもしれませんね。日本の歴史は変わっていたかも!って考えると呉の存続に感謝です。皆さんはどうお考えですか。

 

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三国志とお金の話

 

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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