曹操(そうそう)は戦が上手でしたが、それだけに兵士の士気を失わない事に
気を配りました。
例え、鉄のような軍団を産み出しても、兵士も人間ですから、
ヒドイ扱いをされたなら、士気も低下し場合によっては離反する事もあるのです。
曹操の心憎いばかりの人心掌握術は、特に戦に敗れた時に発揮されます。
それが、張繍(ちょうしゅう)に敗戦した宛城の戦いでした。
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この記事の目次
美女、鄒氏にうつつを抜かし直前まで謀反に気づかないウッカリぶり
西暦197年の春、曹操は宛に侵攻、不利を悟った張繍は降伏します。
しかし、ここからがいけませんでした、元は張繍の族父張済(ちょうさい)の妻である
未亡人の鄒(すう)氏に曹操が目をつけて寵愛しだしたのです。
族父の妻と言えば、張繍には叔母も同然、それを曹操が権力で奪ったので
張繍は激怒し賈詡(かく)に謀って、愛欲の日々を送る曹操に叛いたのです。
曹操は、全く謀反に備えずにノーガードでしたので、ボディーガード典韋(てんい)、
甥の曹安民(そうあんみん)、そして息子の曹昂(そうこう)を失います。
曹操は、ほとんど反撃できないまま、舞陰まで引き上げ、
ここで体制を整え、張繍の騎兵隊を迎え撃ち、何とか撃破しました。
ですが、張繍は宛に戻り、再び劉表(りゅうひょう)と同盟したので、
周囲の豪族は曹操と手を切り、再び張繍を盟主としてしまいます。
自分への冷たい視線を逸らす為に、曹操は身内以外を慰霊する
謀反の理由が、人の未亡人といちゃいちゃしていたせいだという事は、
何も言わなくても、曹操軍の兵士の末端まで知れ渡っていました。
つまらない理由で敗北の苦杯をなめさせられたという苦しみは、
士気の低下として曹操に跳ね返ってきます。
ですが、ここからが曹操の非凡な所です。
伝令から、典韋、そして、曹安民、曹昂の死が伝えられると、
曹操は身内である二人の事はそっちのけで典韋の名を叫び号泣したのです。
これは、一体どういう事なのでしょうか?
あえて身内を無視して部下を追悼する事で信頼を回復する
曹操は淯水(いくすい)で自分を守って戦死した典韋、
そして自軍の兵士を追悼し祠を造って祀っています。
この時、曹操は人目もはばからず号泣し、それを見た兵士達は
感激の涙を抑える事が出来ませんでした。
もう一度、言いますが、曹操は戦死した甥と息子について
なにも顕彰しても悼んでもいません。
曹昂と曹安民の伝でも、ただ、戦死したと書かれているだけで
祀ったのは、飽くまで典韋と戦死した将兵だけなのです。
どうして、こんなアベコベな事をしたのか?
それは兵士に対して、
「私が最も大事に思うのは身内ではなく諸君だ」という
無言のPRをする為なのです。
曹操がプライベートな悲しみに耽れば、兵士は反感を持つ・・
逆に、もし曹操が、典韋や兵士の事は放り出しておいて、
曹昂や曹安民の為に泣いて慰霊をするとどうでしょう?
それは兵士からすれば、まるで面白くありません。
「はぁん、身内が死んで悲しいってか?
じゃあ、赤の他人のあんたに従って死んだ俺達はどうなる?」
そのような反感が湧きおこり、全く私的な悲しみを披露した
曹操に対する尊敬が急速に失われてしまうでしょう。
曹操だって本心を言えば、名前も知らない兵士の死より、
多くの時間を共有した息子の死の方が悲しい筈です。
しかし、だからこそ、ここでは私情を押し殺し、
部下や兵の為にのみ泣く必要があったのです。
本拠地に戻っても典韋を惜しんで曹昂の事は何も言わない曹操
曹操は悲しみの表現を徹底していました。
本拠地に戻ってからも典韋を失った悲しみだけを口にし、
曹昂や曹安民の事は、口にしませんでした。
決死隊を募ってまで死体を奪い返した典韋については、
その後も折を見ては慰霊を行い、息子の典満(てんまん)を取り立てています。
これも、身内を軽んじて軍を重んじる態度として兵士の尊敬を集めます。
ところが、曹操は典韋を祀って贈物をしても、官爵は遺贈しませんでした。
それは、典韋もまた敗戦の責任者として特別扱いしていない事を意味します。
曹操が典韋を祀るのは、むろん典韋が得難い名将だからですが、
それ以上に、私は身内より将兵を愛しているという自己PRの
感情が働いていたからなのです。
パブリックを優先しすぎて妻に去られた曹操
しかし、余りにもプライベートを押し殺した曹操は、曹昂の育ての母である
丁夫人の憎しみを買う事になってしまいます。
我が子よりも部下の事ばかりを悲しむ曹操に、丁夫人は不信感を募らせたのです。
もちろん曹操は弁明できません、そこで弁明すれば、これまでの悲しみの
表現が意図的なモノである事が全将兵にバレてしまうからです。
兵士の信頼を繋ぎとめる為に、曹操は最愛の妻を失ってしまうのでした。
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三国志ライターkawausoの独り言
曹操は反董卓連合軍の一員である頃、揚州で募兵をして4000名を集めながら
ささいな事で謀反を起こされ、兵士の大半を失った事があります。
この時から、曹操は神経質な程に兵士の心理に気を配るようになったようです。
曹操のケースは極端ですが、公的な場で、エコヒイキをしないように、
普段から気を配る教訓になる話ではないでしょうか?
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