黒装束を身にまとい、背中には忍刀、闇にまぎれて姿を隠し、密命を果たす。時代劇でお馴染みの忍者は、日本だけではなく世界中でその人気を誇り、「ニンジャ・タートルズ」から「ニンジャスレイヤー」に至る数々のフィクションでも活躍しています。
ところで忍者には中国が発祥の地であるという説、ご存知ですか?
HMRは今回、この謎に迫ってみました。
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この記事の目次
そもそも、忍者って、なに?
忍者とは、日本の歴史において諜報活動や暗殺、破壊活動などを生業とした個人や集団のことです。言い換えるとスパイですね。その活動は古くは鎌倉時代に始まり、明治維新後、諜報等を公式に行う警察や軍といった組織が編成されたことでその役割を失うまで続いたとされています。忍者の特徴のひとつとして、特定の主君を持たない傭兵的集団であったことが上げられます。伊賀衆や甲賀衆といった集団が有名ですよね。
忍者が使う技=忍術というと、「変移抜刀霞斬り」とか「微塵がくれ」と言った派手な必殺技、という印象がありますが、『萬川集海』という兵法書によると、忍術は「隠忍」と「陽忍」の二種類に大別されるようです。隠忍とは、姿を隠して任務を遂行する者を指します。一般に忍者とイメージと言えば、この「隠忍」に当たります。対して「陽忍」は姿を表に現しながら諜報や破壊活動の任務を果たす者を指す言葉で、よりスパイのイメージに近い存在と言えるでしょう。
忍者=スパイは人類史上二番目に古い職業だった?
ところで、スパイは「人類史上、二番目に古い専門職」であるという話、ご存知でしょうか?
その真偽はさておき、スパイ活動というものがかなり古い時代から行われていたことには間違いありません。その論拠として上げることのできる資料のひとつに、『孫子 用間篇』があります。そう、あの兵法書『孫子』の一篇です。
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孫子に記述された、5種類の「忍者(スパイ)」
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の名言でも知られる通り、孫子の作者である孫武は、戦争において敵の内情を知ることを非常に重要視していました。だから、孫武が自身の記した兵法書において、その一篇をスパイに関する説明に費やすことは不思議ではありません。
孫武は間諜(スパイ)の用い方を5種類に分けて説明しています。
1.郷間:敵国の庶民の間に入り込み、噂話などから敵国の内情を探るスパイ
2.内間:敵国の役人に近づき、諜報活動を行うスパイ
3.反間:自国に入り込んだ敵のスパイから情報を盗むスパイ
4.死間:ウソの作戦計画をわざと敵に知らせて敵を欺くスパイ
5.生間:何度も敵地に潜入しスニーキングミッションをこなすスパイ
孫武は情報戦の重要性を熟知していました。彼が孫子の一篇をスパイの説明だけに費やしたのも理解できます。
死間は命がけで任務を遂行する忍者だった?
孫武の記した五種類のスパイの中でも、特に危険性が高いと言えるのが『死間』です。敵にいつわりの情報を信じさせ、誤った作戦行動を取らせようという死間の任務上、その任を帯びた者は敵にその正体を晒す必要があります。誰なのかも分からない相手の言葉など、それこそ誰にも相手されないだけで終わってしまいます。
もちろん、その人物から得た情報が偽りだと分かれば、情報をもたらした人物はただでは済まないでしょう。まず、死刑です。死を覚悟しなければならないスパイ(間諜)……まさに『死間』です。
さらにもうひとつの問題として、敵に囚われた死間から、偽りではなく正しい味方の情報が敵に漏れる恐れもあります。このため、死間の任務にあたる者には、しばしば自分が敵に伝える情報がウソであることを教えなかったと言います。
三国志演義に見られる『死間』の例とは?
『三国志演義』に描かれた有名な“苦肉の策”のエピソードは、死間の代表的な例のひとつとしてしられています。自軍の三倍からなる曹操(そうそう)の艦隊に手をこまねく周瑜(しゅうゆ)。そんな周瑜の態度を配下の黄蓋(こうがい)は罵倒します。周瑜は怒り、諸将や兵たちの眼前で黄蓋を棒叩きの刑とし、彼に重傷を負わせました。
周瑜に手傷を負わされ、衆目の眼前で辱めを受けた黄蓋は曹操に投降を申し出ます。一連の出来事を呉軍内に送り込んであったスパイから聞き及んでいた曹操は、黄蓋の投降を受け入れます。
しかし、黄蓋の投降は、実は偽りでした。まんまと魏軍の中に入り込むことに成功した黄蓋は、敵艦隊に火を放ち、焼き討ちにすることに成功するのです。敵を欺くために自らを傷つけてみせることから『苦肉の策』の語源とも知られる話ですが、もし計略ばバレてしまえば黄蓋は曹操に囚われ、処刑されていた可能性もあるわけです。まさにこれは『死間』の一例といえるでしょう。
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結局、忍者中国起源説は本当なのか?
日本の忍者の発祥については、聖徳太子が「志能備(しのび)」と呼ぶスパイを用いていた、という伝承が残されていますが、確たる根拠はありません。忍者の存在が確実視されるのは、源平時代以降のこととなります。
一方、忍者の起源ではないかとされる『孫子』が日本に伝来したのは奈良時代のこと、『続日本紀』には、当時太宰府にいた吉備真備の元に『孫子』の兵法を学ぶために下級武官が派遣された記録が残っています。吉備真備には、遣唐使として唐に派遣された経験があり、この時『礼記』や『漢書』などと共に孫子などの兵家の思想を学んだのではないかと考えられています。
時系列的には源平時代以前に、『孫子』は日本に伝来していたことになりますので、『孫子』が忍者の誕生に影響を与えた可能性は確かに考えられるとは言えるでしょう。しかし……。
忍者はやはり日本オリジナルのスパイだった?
『孫子 用間篇』の記述には、私達が一般的に忍者としてイメージする『隠忍』や、その元となるようなスパイ活動の方法に関する記述は見られません。前記した5種類の間諜はむしろ忍者における『陽忍』に近いと言えるでしょう。“黒装束に身を包み忍術を駆使する”忍者は、やはり日本オリジナルのスパイであると考えられます。
孫子の例に及ばず、戦争におけるスパイの重要性は洋の東西を問わず、古くから認識されていたことは間違いありません。かの有名な『トロイの木馬』も、敵地に潜入して内部から破壊工作を行うという意味では、スパイの一例といえるでしょう。むしろ、スパイとは戦争が必然的に生み出したものというべきかもしれませんね。
三国志ライター 石川克世の独り言
ちなみに、「人類史上、最も古い専門職」については、諸般の事情でここでは割愛させて戴きます。興味のある方はネット検索してみてください。ただし、18歳未満の方はお控え願います。お父さんやお母さんに聞いてもいけませんよ?
それでは、次回もまたお付き合いください。 再見!!
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