【キングダムで話題】戦国七雄の神武将7人を紹介


キングダム 47 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

現在、週刊ヤングジャンプで大好評連載中の歴史アクション漫画キングダム。

これまで、史料が乏しい故に誰も描かなかった始皇帝以前の戦国七雄の争いを

圧倒的な筆力と百人を超える登場人物への多彩な性格付けによって

感情移入しやすくし爆発的なヒットとなりました。

 

しかし、そんなキングダムブームに今から乗るのは、ちょっと恥ずかしい

そんな方は、まず戦国七雄の代表的名将7名からサクッと学んでみませんか?


キングダム 神7 韓 申不害

韓という国は、超大国 晋(しん)の領土を紀元前453年に

趙や魏と共に分割し建国した若い国です。

 

そんな韓ですが、国力は戦国七雄の中でも最弱でした。

国境を強国の秦や魏と接していて絶えず圧迫を受け怯えていたのです。

韓には、これという見せ場もなく紀元前230年に真っ先に秦に滅ぼされます。

この最弱の韓を代表する神武将が申不害(しんふがい)です。

 

申不害は低い身分の出身でしたが、師により韓の釐(り)侯に推挙されます。

そして釐侯に

「弱小国の韓が強くなる為にはどうすればよいか?」と尋ねられると

 

「法を厳格に守り公平な政治をすれば治まります

それ以外の方法など知りません」と答えました。

 

釐侯は、その答えを気に入り紀元前355年に申不害を宰相にします。

それから20年余り、韓は申不害の厳格な法の統治により強くなり

秦にも魏にも領土を奪われる事なく僅かですが、領土も拡張しました。

 

最弱の韓を率いて強国の秦や魏につけいる隙を与えないのですから

申不害の才能は稀有なレベルと言えるでしょう。


キングダム神7 魏 信陵君

魏は戦国七雄の中では、そこそこ強い国です。

時々名君が出てくるので名将も集まり、李克(りこく)や西門豹(さいもんひょう)

呉起(ごき)のような名将が出てきますが、今回は一番影響力があった

信陵君(しんりょうくん)を神武将7の一人に挙げました。

 

信陵君は、魏の昭王の子でプリンスです、王位は兄が継いで安釐(あんり)王となり

信陵君は公子としてその補佐にあたりますが、皮肉な事に武力でも

知力でも人望でも、信陵君は兄を上回っていました。

 

信陵君は王族にも関わらず、才能さえあれば身分にこだわらず、

誰とでも会い歓談し生活の面倒を見ている食客は3000人でした。

情報収集能力では王を上回っていて、その為に兄の安釐王に警戒され

長い間、実際の政治から遠ざけられます。

 

紀元前259年、長平の戦いで大敗した趙を滅ぼそうと

秦の大群が趙の都の邯鄲(かんたん)を包囲しました。

この趙の王族の平原君の妻は信陵君の姉でしたので、

「早く援軍を送ってくれ!姉を見殺しにするのか」と矢のような催促です。

信陵君も、何度も兄王に援軍を求めますが、秦を恐れる安釐王は

援軍を出さず趙を見殺しにしようとします。

 

現実と仁義の間で板挟みになった信陵君ですが、仁義を通す決意をし

宮殿から兵を動かす割苻を盗みだすと、前線の将軍、晋鄙(しんぴ)を

偽命令で動かそうとします。

これを怪しまれると晋鄙を部下に撲殺させ、信陵君は自ら魏軍を指揮

邯鄲の内で呼応した趙兵が動き秦軍の包囲を解いて退却させたのです。

 

命を危険に曝して趙を救った信陵君は、男の中の男と讃えられ、

紀元前248年、魏が秦の圧迫を受けると帰国し、兄王と和解

趙、燕、楚、韓、斉の五か国の軍勢をまとめて秦に攻め込み秦軍を撃破し

函谷関(かんこくかん)の西に押し込む事に成功します。

 

結局、信陵君の才能を恐れた秦の計略で信陵君は再び安釐王に疎まれ

失望から酒に溺れて病死しますが、これだけ親分の風格を持ち

秦に恐れられた人物もいないでしょう。


キングダム神7 趙 李牧

 

趙は、元あった超大国晋を紀元前453年、魏、趙、韓で分割して出来た若い国です。

趙国の傑物は、胡服騎射(こふくきしゃ)を採用し中国で初めて騎兵を創設した武霊王であり、

武霊王の死後、恵文王、孝成王の時代に、廉頗(れんぱ)藺相如(りんそうじょ)

趙奢(ちょうしゃ)のような名将が出ますが紀元前260年の長平の戦いで秦に大敗し

40万という兵力を失い没落します。

 

その没落した趙に出現したのが、神武将7の一人、李牧(りぼく)です。

キングダムでも、現在のところ秦のライバルですが、その趙を率いているのが李牧で

元々は趙の北方の雁門(がんもん)という要塞の長官で、騎馬民族の匈奴相手に

守りに徹して連戦連勝していた将軍でした。

 

前漢の歴史家 司馬遷(しばせん)は史記で李牧を守戦の名将と評価しています。

 

その後、趙は廉頗(れんぱ)や楽乗(がくじょう)というような名将が

王と折り合いが悪く、出奔するなどして国力が弱体化したので

紀元前234年に趙の悼襄(とうじょう)王が李牧を中央に呼び寄せました。

 

すると翌年には、李牧は侵攻してきた秦の将軍桓騎(かんき)を撃破します。

戦国七雄の神武将7人の続きは下記シミルボンにて掲載しています

戦国七雄の神武将7人の続きはこちら

関連記事

  1. 孔明もコペルニクスに似ていた
  2. 嬴政(始皇帝)
  3. 呂不韋

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA



はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“ながら三国志音声コンテンツ"

“if三国志"

“つながるはじめての三国志"

“赤壁の戦い"

袁術祭り

春秋戦国時代

PAGE TOP