三国志の時代は、400年続いた漢帝国の秩序が崩壊して混沌に落ちていき、
やがて、その混沌から新しい秩序が再生していった時代です。
では、漢帝国の秩序は誰が崩壊させ、次に誰が再生していったのか?
今回は、この破壊と混沌、秩序と再生の話を5名の人物に焦点を絞りながら
探っていきたいと思います。
まだ漢王朝で消耗しているの?第一回目は、改革なき破壊者、
董卓仲頴(とうたく・ちゅうえい)です。
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この記事の目次
董卓は、他の暴君とどう違っていたのか?
董卓が400年続いた漢王朝に止めを刺したとはよく言われる事です。
しかし、漢王朝に暴君が出現したのは、董卓に限った事ではありません。
董卓が洛陽の主になる30年前には、外戚として独裁の限りを尽くした
梁冀(りょうき)が沖帝、質帝を毒殺し若年の皇帝を立て政治を牛耳りました。
董卓でさえやらなかった皇帝殺しをした梁冀が漢王朝を崩壊させず、
そこまではしなかった董卓が漢王朝に引導を渡した決定的な違いは何でしょう?
後漢が滅んだ理由1 董卓が自前の軍事力を保有していた
梁冀と董卓の決定的な違いは、その基盤となる軍事力でした。
外戚の梁冀が頼みとしたのは、漢王朝の軍隊であるのに対して、
董卓の兵は形の上では官兵ですが、実質は董卓の私兵だった事です。
実際に辺境の兵の待遇は悪く、給与は滞りがちで董卓は下賜された絹を
部下に分け与えて人望を集めた事が、三国志 魏志 董卓伝にも見えます。
また、董卓を恐れた宮廷が栄転を餌に軍勢を手放すように促しても、
董卓は言を左右にして無視していました。
つまり梁冀の横暴には、自ずから限度があり漢王朝を破壊するようなら
皇帝に忠誠を誓う兵士に叛かれる恐れがありました。
ところが董卓の兵は私兵ですから、洛陽が灰になろうとその力が、
失われる事は無かったのです。
もう少し極論すると、梁冀にとり漢王朝は体の一部でしたが、
董卓にとっては、アカの他人に過ぎなかったわけです。
漢王朝が滅んだ理由2 帝都洛陽が焼かれた
漢が滅んだ理由には、董卓による強引な洛陽の焼き打ちと長安への遷都もあります。
これは、単純な大都市の焼き打ちではなく、首都をより文化の遅れた西方に
引き戻すという後退行為でした。
また、反董卓連合軍の主要なメンバーの領地は、すべて洛陽より東にあり
長安に都が遷る事は、彼等をコントロールする術を失う事でした。
実際に、董卓による遷都後、反董卓連合軍同士の利害対立が顕著になっていきます。
政治の中心である中原から遠くなった事が、漢王朝の影響力をますます
弱めていき、滅亡を加速させていったのです。
漢王朝が滅んだ理由 3 貨幣改悪で経済的支配力も消滅
さらに、董卓による五銖銭(ごしゅせん)の改悪も漢王朝の権力を衰微させます。
五銖銭は、一時は中華全土を回り、物資と人を洛陽に集めるツールでしたが、
これが董卓により、とても貨幣として用をなさない程に改悪された為に、
最悪のハイパーインフレが発生してしまい、物価の高騰と貨幣価値の下落を招き
中国では物々交換が復活してしまいました。
これは、漢王朝が五銖銭を用いて経済を統制し、中央に
人と物を集めるシステムを失った事を意味します。
貨幣は、その後、曹操(そうそう)の魏や、孫権(そんけん)の呉、
劉備(りゅうび)の蜀でもそれぞれ鋳造されましたが
国力の不足と原材料の不足、質の粗悪さで五銖銭に匹敵する安定した通貨は出来ず
本格的な貨幣経済の復活は、西暦621年、唐の開元通宝を待つ事になります。
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漢王朝が滅んだ理由 4 献帝の正統性が弱かった
漢王朝が滅んだ理由には、董卓が強引に少帝を廃して献帝を立てた事もあります。
これは、ほとんど董卓の独断で行われた事であり、
袁紹(えんしょう)は散々反対しても聞きいれられず、
怒って洛陽を脱出して、やがて反董卓連合軍を起こしています。
そして、董卓との抗争の最中も韓馥(かんぷく)と共謀して王族の劉虞(りゅうぐ)を
皇帝に擁立しようとするなど献帝はあまねく、全ての諸侯に認められた
皇帝ではありませんでした。
それでも董卓が東に打って出る気概があり、実力で献帝の正統性を認めさせれば
まだ良かったのですが、長安に入った董卓は、万歳塢(ばんざい・う)のような
堅牢な城塞を築き、何かあったら、ここに逃げ込んで事態の変化待とうと考えるなど、
北の公孫サンのような、全く消極的な態度に終始していました。
後漢が長安にあった5年間も、変わらず勅命は出ていましたが、
群雄達は自分達に都合が良ければ畏まり、そうでなければ無視しています。
やがて董卓は呂布(りょふ)に殺され、一時王允(おういん)・呂布政権が樹立されますが、
すぐに李傕(りかく)・郭汜(かくし)に長安は奪われ、後は両者の抗争が続きます。
献帝がようやく、長安を逃げ出して洛陽に辿りついても、
物資が欠乏し、飢えに苦しむ献帝一行を積極的に救う諸侯はいませんでした。
やがて、献帝は、西暦196年、腹心の董承(とうしょう)に売り飛ばされる形で
曹操の庇護を受け以後は、権威だけを利用され、なんら主体性のある行動は出来ないまま、
220年の曹丕(そうひ)による禅譲を受け入れる事になります。
しかし、事実上は、196年に曹操の庇護に入った段階でもう詰んでいた
と考えてもいいでしょう。
そして、漢王朝に止めを刺したのは、ほとんど董卓だったのです。
まだ漢王朝で消耗しているの?ポイント
・どうして、董卓によって漢王朝は滅びたのか?
1 董卓は外戚ではなく自前の軍事力があり
漢王朝が弱る事が自身の勢力の後退と=ではないので
漢を破壊するような行動が堂々と行えた。
2 洛陽を焼き払い西の長安に引き籠る事で、
ほとんど洛陽の東に位置していた群雄を
コントロールする術を失った事
3 五銖銭を改悪する事で、
人・モノ・金を洛陽に集めるツールを失い
経済のブロック化が進んでしまった事
4 独断で少帝を廃して献帝を立てながら、
それを納得させるような軍事的、政治的な働きが無く
献帝の正統性が揺らいだ事。
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