河北を平定し天下の大半を手に入れることに成功した曹操(そうそう)。
流浪の軍勢から益州を平定して地盤を固めた劉備(りゅうび)。
蜀の丞相として活躍し魏を討伐するために何度も北伐を行った諸葛孔明(しょかつこうめい)。
今回は三人の英雄達がいなくなった後の魏で、
軍事面で一番活躍した人物のランキングを付けてみたいと思います。
皆様が上記三人の英雄亡き後の魏で軍事面で活躍した人物とを思い浮かべるとしたら、
誰を思い浮かべますか。
司馬師(しばし)・司馬昭(しばしょう)兄弟から重んじられていた鍾会(しょうかい)でしょうか。
それとも蜀討伐の勲功を立てた鄧艾(とうがい)でしょうか。
もしかしたら寿春で司馬家に反乱を起こした諸葛誕(しょかつたん)を思い浮かべる人も
いるかもしれませんね。
果たしてここで登場した人物は登場するのでしょうか。
乞うご期待!!
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この記事の目次
正史三国志・魏書で軍事面で活躍した人物第3位:初代蜀軍キラーとして活躍した郭淮
正史三国志・魏書で軍事面で活躍した人物第3位にランクインした人物は、
初代・蜀軍キラーとして活躍した郭淮(かくわい)です。
郭淮は定軍山(ていぐんざん)での戦いにも参加しており経験豊富な将軍です。
そんな郭淮は曹操、劉備、孫権亡き後も対蜀軍と前線で幾度も対戦しており、
初代・蜀軍キラーとして抜群の戦功を立てているのです。
では郭淮は初代・蜀軍キラーとしてどれほど戦功を挙げているのかご紹介しましょう。
蜀の姜維(きょうい)は羌族(きょうぞく)と同盟。
蜀と手を組んだ羌族は蜀軍の要請に応じて魏の領土で反乱を起こして、
魏の領土を荒らしまくっていきます。
羌族の反乱は涼州(りょうしゅう)異民族達も羌族の反乱に加担したため、
かなり大規模な反乱となってしまうのでした。
姜維は羌族が反乱を起こした事で魏の領土が荒らされていることを知ると
すぐに蜀軍を率いて北上し魏の領土へ侵攻を開始。
郭淮は魏軍を率いて姜維率いる蜀軍を迎撃して撤退させた後、
反乱を起こした羌族の部族を平定。
さらに郭淮は蜀軍・羌族を蹴散らした翌年、
羌族の反乱に呼応した涼州の異民族を討伐し魏の西方の危機を救うことに成功します。
郭淮はこの戦いであげた勲功によって、
蜀との最前線にあたる雍州と涼州の軍事指揮権を与えられることになります。
郭淮は雍州と涼州の軍事指揮権を与えられた後、
蜀軍が雍涼二州へ侵攻してくると幾度も撃退。
曹操、劉備、孫権(孫権は亡くなっていないが、
亡くなる手前でしたので郭淮をランクインさせました。)の英雄亡き後、
初代・蜀軍キラーとなり魏の国防を担ったことからランクインさせていただきました。
正史三国志・魏書で軍事面で活躍した人物第二位:二代目蜀軍キラーとして活躍した陳泰
正史三国志・魏書で軍事面で活躍した人物第二位は郭淮の跡を継いで、
魏の西方を蜀軍から守り通し二代目蜀軍キラーとして活躍した陳泰(ちんたい)です。
陳泰は魏の政治における重鎮であった陳羣(ちんぐん)の息子で、
三国志が好きな方であれば聞いたことのある名前だと思います。
陳泰の略歴をご紹介したところで曹操、劉備、孫権亡き後どのように
軍事面で活躍したのかご紹介しましょう。
姜維は蜀軍を率いて魏の西方の領土である狄道(てきどう)に侵攻を開始。
狄道を守っていた魏の将軍・王経(おうけい)は姜維率いる蜀軍を迎撃する為出陣しますが、
姜維軍の攻撃を受けて敗北してしまい狄道城に敗走してしまうのでした。
陳泰は姜維が狄道城へ迫っていることを知り、
夜間行軍を行いながらなんとか姜維の軍勢が狄道城を陥落前に狄道城近辺へ到着。
陳泰は蜀軍をどのように蹴散らすか軍議を行います。
陳泰の部下であった鄧艾などの諸将は「姜維率いる蜀軍は王経に勝利したことで、
蜀の兵士達の勢いは鋭く当たるところ敵なしの状態です。
そのためここは狄道城を一度放棄して我が軍を要害の地に駐屯して、
姜維軍の勢いを殺すべきであると思います。」と進言。
だが陳泰は「馬鹿な事を言うな。もし姜維軍が狄道城を陥落させ、
羌族などに協力要請を行ったらそれこそ手が負えない状態になってしまうではないか。
姜維軍は軽装で狄道城を包囲していることから持ってきている兵糧はあまり多くないはず。
そのため狄道城を包囲している姜維軍を攻撃して撃退するのが一番いい。」と
持論を展開し姜維軍へ攻撃を仕掛けることにします。
姜維は魏軍が狄道城を救援しに来た事を知って、
狄道城に一番近い道を魏の救援軍が通ると予想。
姜維は魏軍が通ると予想した道路に伏兵をおいて、
魏軍に対する迎撃態勢を万全に整えておりました。
しかし陳泰は姜維が狄道城に一番近い道に伏兵を設置している事を看破し、
姜維の伏兵が設置されていない道を行軍して狄道城へ接近し、
狄道城を包囲している蜀軍へ猛攻を開始。
姜維は魏軍が伏兵に引っかからなかった事と兵糧を輸送している道が封鎖されてしまう
可能性などを考慮して撤退していくのでした。
こうして姜維軍を打ち払うことに成功した陳泰。
陳泰こそ英雄亡き後の魏において、
軍事面で活躍した将軍と言えるのではないのでしょうか。
正史三国志・魏書で軍事面で活躍した人物第一位:蜀を討ち滅ぼした鄧艾
正史三国志・魏書で軍事面で活躍した人物第一位は、
益州に割拠していた蜀を討ち滅ぼすことに成功した鄧艾(とうがい)と言えるでしょう。
三国志を好きな方であれば必ず一度は聞いたことのある鄧艾の活躍。
更に鄧艾ははじめての三国志ライターのほとんどが参加している大三国志にも、
登場しているためかなりの知名度を誇っているといっていいでしょう。
そんな知名度抜群の鄧艾ですが一体どのようにして蜀を攻略したのか。
ここでざっくりとご紹介させていただきましょう。
鄧艾は鍾会率いる魏軍が蜀の防衛ラインである剣閣(けんかく)を攻略できない事を知って
ある作戦を思いつきます。
それは剣閣を無視して道なき道を行軍して蜀の真ん中に侵攻する作戦でした。
この作戦を知った鍾会は鄧艾の作戦を無謀であると批判しながらも、
鄧艾の熱心な説得によって作戦許可を出します。
鄧艾は鍾会から許可をもらうと剣閣を後にして軍勢を率いて道なき道を進軍。
鄧艾が選んだ道なき道の行軍はかなり厳しく、
道路の舗装や谷に橋が掛かっていない事から行軍は困難を極めます。
しかし鄧艾は谷に橋を架ける工事をしたり、
崖から転がって進むなどしてなんとか行軍を継続。
この努力の結果、鄧艾は蜀軍の守備兵が比較的少ない江由(こうゆう)に到着し、
この地の城主であった蜀の将軍を降伏。
鄧艾は江由を拠点にして蜀の首都・成都へ向かって驀進していきます。
鄧艾は諸葛噡(しょかつせん)親子が守備する成都防衛の最終ラインである
緜竹(めんちく)関を苦戦しながらも突破。
蜀の皇帝・劉禅は緜竹関を突破された事と側近の譙周(しょうしゅう)の説得によって、
魏に降伏することになります。
こうして鄧艾は蜀討伐戦において最大の勲功を受ける事になるのです。
もし鄧艾が蜀討伐戦に参加していなければ、
蜀を滅亡させることができなかったかもしれません。
このように考えれば曹操、劉備、孫権亡き後、
魏の軍事面で活躍した将軍の中で一番と言えるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
三国志は曹操や劉備などが亡くなり、
諸葛孔明が三国志の舞台から居なくなると急激につまんなくなると考えている人が、
多いのではないのでしょうか。
実はそんなことありません。
諸葛孔明亡き後も三国志は結構見どころのある人物達や事件が多数発生しております。
今回はランキング形式にしたため黒田レンが独断と偏見で選んだ人物しか、
出てきていませんがランクインした人物以外にも多くの人達が活躍しているので、
ぜひ諸葛孔明亡き後の三国志をご覧になってはいかがでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志・魏書 今鷹真・小南一郎訳など
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