三国志の戦場では、都市はすべて城壁で囲まれているので、無血開城以外は、すべて攻城戦を行う事になります。この事は欧州の戦争とよく共通している点と言えるでしょう。
攻城戦の技術が最初に頂点に到達したのは、中国が7つの強国に分割され天下統一を巡り争った春秋戦国時代で内戦の時代でした。それから、400年の漢帝国の太平を経て、再び国家が内乱状態になった三国志の時代、攻城戦のテクニックは再び磨かれていくのです。
中国は内乱の時代に攻城戦の技術が発展する
中国は、統一されて外に向かっていく拡大の時代と国内で内戦を続ける縮小の時代に分けられます。統一が成されると、内側からは戦乱が無くなり、長城の外の騎馬民族が主要な敵になるので、戦場は平面的で攻城戦は、ほぼ行われず、騎兵による機動戦が発展していきました。
逆に、統一が失われて、天下の争奪戦が行われるようになると、中国の都市は全て城塞都市なので、盛んに攻城戦が行われ、そこで、技術が磨かれていく事になります。三国志の時代とは、春秋戦国時代と同様に内戦の時代なので、攻城戦のテクニックが磨かれていったのです。
易京、官渡、陳倉、合肥、鄴、枚挙にいとまがない攻城戦
簡単に三国志の歴史を見渡しても、攻城戦の歴史は随所に見られます。公孫サンが立て籠もり、袁紹(えんしょう)によって陥落させられた易京(えきけい)城、曹操(そうそう)が袁紹軍の猛攻を耐え抜き、逆転勝利への契機を掴んだ官渡(かんと)城孫権(そんけん)が生涯に何度攻めても落とせなかったガッピムカつく合肥城。袁家の本拠地として曹操が陥落にてこずった鄴(ぎょう)城、諸葛亮(しょかつりょう)でも落せなかった陳倉(ちんそう)城など、探せばいくらでもあると言えるでしょう。このような三国志の戦いの中で攻城戦のテクニックは深化していきました。
墨家が生み出した12の攻防テクニック
三国志の時代には、戦国時代に非攻・防戦のプロフェッショナル墨家(ぼっか)によって編みだされた12の攻防戦のテクニックが踏襲され基本とされました。それを、ひとつずつ解説してみましょう。
臨(りん)・・城の城壁と同じ高さの土山を築き、それを延長させる事で、
城壁の内側に入り込もうという戦法
鉤(こう)・・クレーンの鉤を使い城壁の上部の構造物を破壊する
衝(しょう)・・衝車や攻城塔を使い、城壁を破壊する
梯(てい)・・梯子や雲梯を使って城壁を越える
堙(いん)・・城の周囲の濠を埋める
水(すい)・・水攻めを行う
穴(けつ)・・地下道を掘って城壁を破壊する
突(とつ)・・地下道を掘り、城内に奇襲攻撃を行う
空洞(くうどう)・・城壁に突破口を開ける
蟻傅(ぎふ)・・損害を度外視し、兵士に城壁をよじ登らせる
轒轀(ふんおん)・・轒轀車と呼ばれる装甲車によって城壁に接近する
軒車(けんしゃ)・・巣車(望楼付きの車)を使って城を観察する。
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三国志の時代には、これに投石機も加わった
三国志の時代には、この墨家の十二のテクニックに、霹靂(へきれき)車のような投石機も加わる事になりました。さらに三国志の時代には、野戦築城の技術が向上したので、これらの攻城戦の技術は野戦に応用されていく事になります。
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