さて、今回紹介します故事成語は「苦肉の計(くにくのけい)」です。「三国志演義」に登場して有名な言葉ですが、実は本来と違う意味で誤用されやすいのも特徴だったりします。
それでは、「苦肉の計」を解説してまいりましょう。なお、今回はその内容上、「(身体的に)痛い」例え話が多くなっております。極力、グロい話にならないよう表現しておりますが、苦手な方は内容にご注意くださいますよう、お願い致します。
この記事の目次
『苦肉の計』 用例と解説
・用例:
「オヤジのヤツ、なかなか新しいスマホ買ってくれないから。古いのをわざと壊して、それをオヤジに見せて泣き真似したんだそしたら、あっさり新しいのを買ってくれたよまあ、いわゆる“苦肉の計”ってヤツだな」」
・解説:
「苦肉の計」の“苦肉”の意味は“敵を騙すために自分を苦しめること”“計”は、計略の“計”を意味します。
日本語では「苦肉の策(さく)」「苦肉の謀(はかりごと)」とも言いますね。“策”と“謀”には、いずれも相手を騙す策略・謀略の意味があります。普通、人は自分をわざと苦しめるようなことはしません。だから、つい他人がケガをしたり、何かを無くしたと嘆いていると疑うよりも前に、その人を信用してしまいがちです。“苦肉の計”とはそんな人間心理を利用して敵を信用させ、油断させることでその隙き突く、戦争や外交における作戦を意味する故事成語です。
“苦しまぎれ”の意味で使うのは間違い?
一般的に「苦肉の計」という言葉は“苦しまぎれ”という意味で使われることが多いですね。言葉の原義的意味としては、この使い方は間違いといえます。しかし、現代では“苦しまぎれ”という意味で使われる例の方が多く、一概に誤り、と言い切れないことも確かです。
また、「苦肉」と字面が似ていることからしばしば混同されやすい言葉として「苦渋」があります。「苦渋」とは苦くて渋い味のこと。そこから転じて「辛く苦しい思い」の意味で用いられます。「苦渋の決断」(辛く苦しいことを心に決めること)という形で用いられることが多いですね。「苦渋の策」という使われ方をすることもありますが、こちらの方が、“苦しまぎれの策”という意味に近いといえます。
出典元は兵法書「兵法三十六計」
「苦肉の計」の出典元となったのは、西暦420年に宋の国を建国した劉裕(劉裕)に仕えた武将、檀道済(たんどうせい)が書いたとされる兵法書『兵法三十六計』です。
戦争における兵法を6種類にカテゴライズ、さらに各カテゴリを6つの「計」に分類していることから6×6=36計になる、というのがタイトルの由来です。「三十六計逃げるに如かず」(場合によっては逃げるのが得策である)という故事成語の元ネタにもなっていますね。世界的に、中国の兵法書と言えば「孫子」が知られていますが中国国内ではむしろこの『兵法三十六計』の方がよく知られています。
但し、その内容には戦術とは無関係なものも含まれるなど、内容に荒削りな面があり、その文面も、あまり出来がよくない等。書物としての評価は「孫子」よりも低いのが実情です。この「兵法三十六計」の六巻目となる「敗戦計」(自国がきわめて劣勢の時に起死回生の策として用いる計)の四番目に解説されているのが「苦肉計」です。故事成語「苦肉の計」は、この「苦肉計」が語源になっています。
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最も有名な黄蓋の「苦肉計」
三国志ファンの方であれば、「苦肉計」と聞いてまず思い起こすのは『三国志演義』に書かれた、赤壁の戦いにおける黄蓋(こうがい)が用いた「苦肉計」でしょう。劉備・孫権の連合軍に対して3倍もの艦隊を擁する曹操軍。正面から戦えば敗北は必至、という状況下にあって、周瑜はこの状況を打開する有効な策を見出すことが出来ずにいました。
そんな周瑜を、部下の黄蓋が罵倒、周瑜は黄蓋の言葉に怒り、兵卒が見ている前で彼を鞭打ちの刑にかけてしまいます。この時代の鞭とは、現代の革紐のようなものではなく硬い棍棒のような武器でした。そんなもので何度も打ち据えられたのですから、黄蓋は息も絶え絶えの重傷を負ってしまいます。この一連の様子は、孫権の軍中に忍び込んでいた曹操の間者によって、その一部始終が曹操に報告されます。
鞭打ち刑で深手を負い、兵士の前で辱めを受けた黄蓋は曹操軍に投降することに決め、手紙を送ります。周瑜(しゅうゆ)と黄蓋の諍いは、曹操軍に対抗するために黄蓋が周瑜に提案した「苦肉計」でした。曹操は一旦はこの「苦肉計」を看破しますが、孫権軍の使者であった闞沢に丸め込まれ結果的には黄蓋の投降を受け入れてしまいます。こうして偽の投降に成功した黄蓋は曹操軍の軍船に放火することに成功、敵を撃退することに成功しました。
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周瑜が「苦肉計」を知っているのはちょっと変?
余談になりますが。
この黄蓋による「苦肉計」が登場するのは『三国志演義』第四十六回ですが、黄蓋から献策を受けた周瑜は感激して、こんな事を言っています。
君若肯行此苦肉計
則江東之万幸也
(現代語訳)
あなたが「苦肉計」を引き受けていただけるというのでしたら、それは私達東江の者(孫権軍)にとって、これ以上ないほどの幸いです。……このセリフ、考えてみるとちょっとおかしいですよね。前述の通り、「苦肉の計」の元ネタとなった「兵法三十六計」は赤壁の戦いよりも200年以上後の時代に書かれた兵法書です。それなのに、どうして周瑜が「苦肉計」という言葉を使っているのでしょうか?
『三国志演義』が成立したのは「兵法三十六計」が記された宋よりも更に後、明の時代です。そして、庶民の間では、「孫子」よりも「兵法三十六計」の方が兵法書としてはポピュラーな存在でした。羅貫中が「孫子」ではなく「兵法三十六計」を引用したのは当時の読者がより理解しやすいように工夫した結果かもしれません。
歴史上、実際に行われた「苦肉計」の事例はあるの?
皆さんご承知の通り、『三国志演義』はあくまで、正史「三国志」をベースとして書かれた小説です。正史三国志には、赤壁の戦いにおいて黄蓋が「苦肉計」を用いた、という記述は存在していません。つまり、三国志演義の「苦肉の計」のくだりはあくまでフィクションであるわけです。歴史上、実際に行われた「苦肉計」としては、こんな事例をあげることができます、
・鄭の武公
春秋時代の初期、鄭の君主であった武公は異民族の国である胡国を滅ぼすために非情な策を用いました。
まず、武公は胡国の王に娘を嫁がせ、胡国との間に友好を結びます。その上で、武公は自らの臣下に、「攻めるべき相手はどの国か?」と問いました。家臣の一人、関其思(かんしき)が進み出て「仇敵である胡国を攻めるべきです」と進言します。
この進言を聞いた武公は激怒、「我が娘を嫁がせた胡国は今や我が兄弟国である。その胡国を攻めよとは、なにごとか!!」武公の怒りに触れた関其思は処刑されてしまいます。この話を伝え聞いた胡国の王は、鄭の友好をすっかり信用してしまい、備えを怠るようになりました。
しかしそれこそが武公の本当の狙いだったのです。鄭の軍勢は油断を見せた胡国を急襲し、これを滅ぼしてしまいます。敵国を信用させる為に家臣の生命を奪う、これはまさに「苦肉計」の一例と言えるでしょう。
・漢の韓信
楚漢戦争時代、儒学者であった酈食其(れきいき)は漢王であった劉邦に斉との和平交渉を提言、自ら斉に赴き、その弁舌を持って斉の国を帰順させることに成功します。
しかしその頃、劉邦の配下の将軍であった韓信は軍勢を率いて斉攻略の最中にありました。このままでは酈食其に手柄をすべて盗られると思った韓信は、斉の和睦を知りながらも攻撃を続行、防備を解いていた斉の城は次々と陥落していき、怒り狂った斉王は酈食其を釜茹での計にしてしまいました。酈食其は韓信と共謀していたわけではないので、正確には「苦肉計」とは言えませんが、結果的には「苦肉計」と同じ効果があったと言える事例です。
江戸時代にも行われた「苦肉計」?
日本の江戸時代、こんな川柳が詠まれています。
「ゆび切るも実は苦肉のはかりごと」
この時代、遊郭の遊女は、客を籠絡するのに、自分の(客への)思いが嘘偽りの無いことを証明するため、小指を切って客に贈るということが行われていました。なんとも凄まじい手練手管ですが、この川柳は、自らの身を傷つけてでも客を惹きつけようとすることを「苦肉の計」に例えたものであるわけです。
三国志ライター 石川克世の独り言
それにしても、冒頭で申し上げた通り、鞭打ち刑とか釜茹で刑とか指を切るとか、なにかと「(身体的に)痛い」話の多い回でしたね。まあ、「苦肉計」というもの自体が、苦痛を対価とする計略のことなので、致し方ないことではあるのですが。願わくば、自分が「苦肉の計」を使うような立場にはなりたくないものですね。それではまた、次回。
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