蜀(しょく)という土地。始皇帝(しこうてい)が天下統一する前から秦(しん)の領土でした。蜀に独立国家を作るなんていうことは、三国志の劉備(りゅうび)がやるまでは誰もやったことがないんじゃないの、と思いがちですよね。ところがどっこい。始皇帝による天下統一の95年前までは、独自の文化を持つすっごい独立国が蜀にあったのです!
天下統一前の中国
始皇帝が天下統一する前の時代は、春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代とか、戦国時代とか呼ばれています。春秋時代は戦国時代よりも昔で、二つつなげて春秋戦国時代と呼んだりもしますが、天下統一直前の時代は戦国時代です。
戦国七雄(せんごくしちゆう)と呼ばれる大きな七つの国と、その他の小国が天下に割拠していた時代でした。天下のほとんどを占めていた七つの大国は、秦・楚(そ)・斉(せい)・燕(えん)・韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)です。
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戦国時代の蜀
戦国時代の地図を見ると、蜀は秦の領土に含まれているものが多いです。そういう地図を見て、蜀の土地は昔から秦だったんやね、と思いがちですが、よくよく見ると、地図に「紀元前315年頃」なんて書いてあったりします。紀元前316年までは、蜀には「古蜀(こしょく)」と呼ばれる独立国がありました。
紀元前316年に秦に滅ぼされたのです。始皇帝による天下統一の、たった95年前です。
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古蜀(こしょく)はどんな国?
蜀の地には有史以前から文明がありました。ここにあった古蜀の国、春秋時代よりももっと前、周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を討伐した時に、武王に味方して討伐に参加したそうですが、春秋時代の諸侯の会盟には参加できなかったそうです。会盟の地から遠かったことと、異民族国家であったためでしょう。
正史三国志の注釈にしばしば引用されている地誌の『華陽国志(かようこくし)』には、秦の群臣が蜀のことを「西僻之国、戎狄為隣(西の辺境の異民族国家)」と言う場面があります。
周王朝が衰えると、古蜀の君主は「王」を名乗ったり「帝」を名乗ったりしていますが、そのあたりのことはメジャーな歴史書『史記(しき)』には記されていません。中華の歴史とは全然関係ない世界のお話とみなされていたのでしょう。『史記』にスルーされたのですから、私たちが蜀にあったすっごい独立国のことを聞く機会がめったにないのも道理です。
古蜀のすっごい文明
四川省広漢市にある三星堆遺跡(さんせいたいいせき)からは、たくさんの青銅器、金製品、玉石器などが発掘されています。これらの文物は、殷(いん。紀元前17世紀頃~紀元前1046年)の時代に、蜀の地にも高度な文明があったことを証明しています。
従来、黄河流域で起こった文明がまわりに伝わっていったと考えられていたため、長江流域にも並行して文明が発展していたことが証明される発見として、三星堆遺跡は大いに注目されました。殷の青銅器は器、武器、楽器などの道具類が多いのに対し、三星堆遺跡でみつかった青銅器は神や人の姿をかたどったものが多くみられ、殷とは異なる独特の文化を持っていたことが分ります。
殷の青銅器にひけをとらない精巧なつくりから文明の高さが分りますが、最も目を引くのは人物像の造形の特異さです。エジプトのネフェルティティの胸像のような細長い人頭像に、仮面ライダーディケイドのような目がついているものや、幅が137cmもある巨大な仮面から、両目にトイレットペーパーの芯を突き立てたように瞳が突起しているものなど、殷の平べっちゃい饕餮文(とうてつもん。殷の青銅器によくついている獣面文様)を見慣れている目から見るとカルチャーショックです。(ネフェルティティだのディケイドだののたとえは私の主観です。興味のある方は三星堆の画像を検索してみて下さい)
三国志ライター よかミカンの独り言
蜀の地は、水と緑が豊かで塩田や鉄鉱山もあり、そこだけで暮らしていける自然環境に恵まれており、天府(てんぷ)の国と呼ばれています。周囲は山に囲まれており、独立国家を作るにはうってつけの場所です。
古蜀が滅んだあとも、後漢(ごかん)初期には公孫述(こうそんじゅつ)が成(せい)王朝を建てていますし、三国志の蜀が滅んだあとも、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代には成漢(せいかん)と後蜀(こうしょく)が建っていますし、五代十国時代には前蜀(ぜんしょく)と後蜀(こうしょく)が建ちました。
日中戦争の時にも、四川に独立政権を建てて日本軍に抵抗しよう、なんていう論もあったようです。山に囲まれた天府の国。魏のあった中原(ちゅうげん)あたりとは一味違ったダンジョンです。
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