曹操と劉備ではどっちの武力が上?究極の個人対決

2018年2月15日


 

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曹操(そうそう)劉備(りゅうび)では、どちらの力が上か?

これは言うまでもなく曹操です。

華北を統一した曹操と巴蜀をようやく得ただけの劉備では

比較にならないどころか、呉の孫権(そんけん)よりも下でしょう。

しかし、個人的な武力ではどうでしょうか?ちょっと調べてみました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ゲームでは、総合値で曹操に負けている劉備

 

劉備はコーエーの三國志で初期は三国志演義の主人公補正により

知力95、魅力99、武力63など武力以外はTOPクラスの

パラメーターを保持していて、初代三國志では9位です。

 

一方の曹操は、これまた初期から、武力94、知力93、魅力100と

総合ランキングでは、大体1位を獲得しています。

 

しかし、三國志13では、個人的な戦闘力である武力の差は、

非常に縮まり、劉備が武力77、曹操が武力72と逆転しました。

しかし、曹操は、統率が99と非常に高く、劉備の80を20近く上回り

結果として総合力で劉備を引き離しました。

 

という事は、個人的な武力に限れば

劉備は曹操とドッコイなのでしょうか?

 

儒者にとって弓は必須の学問だった

 

私達は、儒者というと、ただの知的なインテリと思っていますが、

実は、儒者も弓に関しては修練をしていたようです。

儒教のテキストである周礼は、社会生活における人間の振る舞いを礼と呼び、

吉、凶、軍、賓、嘉の5つに大別していました。

この中の軍が出征や凱旋、軍事訓練の項目であり、そこには大射という

イベントがありました。

 

こちらが日本に伝わり、正月の17日、建礼門前において行う

弓の技を試みる行事になっています。

参加するのは、親王以下、五位以上、六衛府の者が集合し、

天皇は豊楽院で観覧していたようです。

 

また、西晋時代の文人で陸機(りくき)と並ぶ名声を得た

潘岳(はんがく:247~300年)は、外出する時に弾弓を持って出ています。

これは、ある程度、弓の腕があったという事ではないでしょうか?

 

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何が言いたいかと言うと、武勇伝エピソードが皆無な劉備でも、

盧植(ろしょく)の私塾に通えるだけの高等教育を受けている以上は、

弓も一応習ったであろうという伏線です。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

個人としても武力が高い曹操

 

曹操は、指揮官としても一流ですが、個人の武勇についても記録があります。

まだ、無名の青年時代、十常侍の趙譲(ちょうじょう)の屋敷に忍び込み

追手に囲まれると戟を舞わせて庭まで出て、塀を飛び越え逃げたと

孫盛(そんせい)の異同雑語にあります。

 

十常侍と言えば、世間の人に憎まれている事非常なモノなので、

その警護に当たったのは、それなりの強者であったと考えられます。

しかし、曹操は戟を振り回し、触れさせもしなかったと言うので

曹操の武力の強大さが分かります。

 

五礼の中に戟の扱い方は入っていないので、

曹操は自分で師匠について習ったのかも知れません。

 

というのも、曹操の後継者になった曹丕(そうひ)は典論の記述では

弓は父に習い武芸については、各地で武芸者について極めたらしいので、

曹操も若い頃、同様のやりかたを取ったのかも知れません。

 

劉備のめぼしい武力エピソードを紹介

 

劉備の武力エピソードでめぼしいものを拾ってみますと、、

黄巾の乱の論功行賞の手柄で劉備は、安喜県尉(警察署長)になりますが、

折しも、後漢王朝は、官位を乱発して財政難に悩んでおりました。

 

そこで、督郵(とくゆう:役職)を派遣し役人の大量リストラを行ったので、

大した後ろ盾(手柄)もない劉備はリストラ要員として決定されてしまいます。

それを逆恨みした劉備は、命令を偽って督郵を捕縛して県境まで行き

大きな木に縛り付けて鞭で百回以上も打ちますが、命乞いをされたので、

殺すのを断念して、仕事を放り出して逃亡しました。

 

もう一つは、荊州時代、劉表(りゅうひょう)の後を継いだ

劉琮(りゅうそう)は早々と曹操に降伏し、

学者の宋忠(そうちゅう)を派遣して劉備に事後承諾を求めた時です。

 

勝手に降伏され、ブチ切れた劉備は、剣を引き抜いて

宋忠の頭を叩き割ろうとしますが、

それをやった所で、絶体絶命は些かも変化しない事に気づき、

断念してしまうという話があります。

 

こうして見ると、劉備の武力エピソードって、、

曹操と違い、憂さ晴らしの暴力しかないんですね。

 

劉備は武力を極力用いないようにしたのでは?

 

こうしてみると、劉備と曹操の武力の差は歴然としていますが、

そこには、単純な武力の差以上に、闘いに関する両者の視点が

大きく違うという事かも知れません。

 

曹操は、良くも悪くもポジティブな人物であり、

自ら行動し、結果として訪れた不利な状況を武力で切り抜けます。

呂伯奢事件なども、殺られる前に殺れ!という

曹操のポジティブな意志が見える逸話です。

 

逆に劉備は、同族の劉平に憎まれて刺客を差し向けられても、

それに気が付かず、誠心誠意おもてなしをし、

気の毒になった刺客が「自分は刺客だ」と告げて去ってしまうなど、

極力、トラブルを避ける傾向があります。

 

もしかすると、劉備もそこそこ強いのかも知れませんが、

危機は可能な限りよけて通るという性格が、

それを発揮させなかったという事なのかも知れません。

自分が有利なら暴力もいいのか?というと、

それもちょっとアレですが・・

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

正史の史料に当たる限りは、武勇伝エピソードがない劉備は、

個人としても、何度も修羅場をくぐっている曹操には

武力では劣ると断言せざるを得ません。

 

推測ですが、三國志13のパラメーターには、

劉備の三国志演義での活躍呂布vs桃園三兄弟等が

プラス補正で入っているのではないでしょうか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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