劉備(りゅうび)の義弟にして、五虎将軍の筆頭、関羽(かんう)
言わずと知れた、三国志屈指の人気キャラですが
そんな関羽の名言には、どのようなものがあるのでしょう?
正史三国志から拾ってみました。
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関羽の名言1
関羽は、西暦200年頃、徐州を陥れようとした劉備(りゅうび)に従い
曹操(そうそう)と戦いますが敢え無く敗れてしまい、下邳で捕虜になります。
しかし、曹操は以前から、関羽の武勇と人格に目をつけており、
関羽とは親友同士の張遼(ちょうりょう)に
「関羽が私に仕える気が無いか聞いてくれ」と頼んでいました。
そこで、張遼が関羽に劉備を捨てて、曹操に仕える気は無いか?
と尋ねた時の関羽の返答が最初の名言です。
「私は曹公が私を待遇する気持ちの厚いのは良く知っている。
しかし私は劉将軍に厚恩を受け、共に死すことを誓った身で背く事はできない。
私は曹公の為に功績を立て恩義に報いて後、曹公の下を去ろう」
関羽の名言を受けた張遼の名言
関羽の言葉を聞いて、張遼はやはり・・と思うと同時に落ち込みます。
これを曹操に伝えたら、曹操は後々に脅威になる関羽を殺すだろう、
友人として友を殺す事になる事実を告げるべきであろうか?
ですが、流石は張遼で、このような名言を残し割り切ります。
「曹公は主であり、関羽は兄弟に過ぎぬ、私情に拘泥して本務を忘れようか!」
曹操から受けたのは命令であり、何よりも優先すべき事、
関羽は兄弟とも思う友だが、飽くまでも私的な関係に過ぎない
どうして私情を優先して、主君の命令を違えようと言うのです。
こちらも立派です、もし関羽と自分の立場が逆なら、
関羽もそうしただろうという確信も感じ取れます。
それに対して、曹操もさるものであり、関羽を処刑するどころか
「君主に仕えて、その忠義を忘れないのは天下の義士である
関羽はいつ頃去るだろうか?」
このように答えて、関羽を放つ度量を見せました。
関羽の名言2
西暦219年、関羽は宛の侯音(こうおん)の反乱に乗じて北上し
曹仁(そうじん)の守る樊城を包囲し水攻めします。
しかし、この頃、関羽は不吉な夢を見ていました。
夢の中で関羽は、突進するイノシシの子供をあしらえず、足を咬まれたのです。
例え、夢でも敵に遅れを取る事がなかった関羽は自らの衰えを悟ります。
その事を、関平(かんぺい)に告げた時に述べたのが、以下の言葉です。
「俺は年を取ったようだ、、だが引き返す事は出来ぬ!」
この頃の関羽は、50代の後半、この時代の常識では隠居してもおかしくない年です。
それでも、引き返さないのは、「たかが夢だ」という気持ちと、
自分には時間がない、そのような焦りがあったのでしょう。
ですが、夢は的中しました、イノシシの子供とは、
まだ無名だった呉の陸遜(りくそん)の暗示であり、
徹頭徹尾、下手に出た陸遜に関羽は呉への警戒心を解いてしまい、
魏呉の挟撃に備えられませんでした。
二度目には狼の子として殺される
関羽にとっては、まさかの呉の孫権(そんけん)の裏切りにあい、
軍勢からは脱走者が続出、樊城の包囲も難しくなります。
こうして、魏にも呉にも追われる羽目になった関羽は、
関平と共に、逃げる途中に臨沮(りんそ)で待ち伏せていた
潘璋(はんしょう)の司馬の馬忠(ばちゅう)に捕えられて即座に斬られます。
呆気ないですが、すでに半分とはいえ荊州を領した関羽です。
呉も降伏させようなどとは考えなかったでしょう。
また、蜀記には、以下のようにあります。
孫権は、関羽と関平を捕えると、生かして劉備や曹操に対抗させようとしたが
左右の群臣は、こぞって反対し
「狼の子は養えません、後にきっと害を為しましょう
曹操は、これを排除しなかったばかりに禍を被り、
時間と共にトラブルを抱えたのです。
どうして生かせましょう?」と言ったのでこれを斬った。
これは、後世の作り話のようですが、関羽が他国から
どのように思われていたか?それを知る参考になる話です。
劉備にとっては忠義の士でも、他国から見れば、
決して人に懐かない狼の子のようだと考えられていたのでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
関羽の名言について、書いてみました。
劉備に対して忠義を立てて、他の群雄には一時は仕えても
忠誠を誓う事などなく劉備の元に帰る事を前提とした人物は
三国志全体を見ても、関羽位しか見当たりません。
曹操が敵対する事を承知の上で解放した武将も、
やはり関羽しかいませんから、
なんだかんだで別格の人物が関羽なんですね