他人の気持ちを察するのは難しいものです。客観的に見ると「なんでそんな言動をするの?」ということも、本人の過去や立場から見てみるとまったく異なる景色だったりします。『暗愚』という烙印を背負った蜀の二代目皇帝・劉禅は祖国の滅亡後、どのような生活をし、どのような思いで過ごしていたのでしょうか。
洛陽に移される
蜀が魏の侵攻を受けて降伏した後、劉禅は数名の家臣と共に洛陽に移されました。かつて董卓によって火を放たれ、灰燼に帰した洛陽ではありません。魏の都として再生した洛陽の姿を初めて見て、劉禅は圧倒されたのではないでしょうか。蜀漢の皇帝といえども僻地・益州の地から40年間も外に出ていないのです。新しい世界や文化に触れて、新鮮な感動があったかもしれません。それまでの劉禅は籠の中の鳥のような存在だったからです。
なぜ処刑されなかったのか
劉備は魏が皇位を簒奪したとして憎みました。諸葛亮もまた劉備の遺志を継いで北伐を何度も敢行しています。さらにその弟子のような存在である姜維も北伐を粘り強く続けました。魏にとっても蜀は執拗に攻撃を仕掛けてくる邪魔な存在だったわけです。蜀との戦いで命を落とした将兵もかなりの数にのぼったことでしょう。魏からすると蜀は憎しみの対象です。
にもかかわらず、なぜ劉禅は処刑されなかったのでしょうか?洛陽に移された劉禅は安楽県公に封じられ、さらに子孫も50人ほどが諸侯に取りたてられています。処刑されたり、罪に問われるどころか厚遇されているのです。
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司馬昭の策略
この処置を決めたのは実権を握っていた司馬昭です。狙いは単純で、残った呉が降伏しやすい環境を整えるためでした。あれだけ魏を攻撃してきた蜀の皇帝が降伏後に優遇されているのですから、呉が降伏したとしても酷い扱いは受けないでしょう。それを示したかったのです。
実際に劉禅が安楽県に向ったという記録はありません。まさに肩書だけです。洛陽に1万戸の領土を与えられて、271年まで余生を楽しみました。ある日、司馬昭が宴会の席で劉禅に「蜀が懐かしくないですか?」と尋ねたそうです。その時は蜀の音楽が奏でられ、劉禅の家臣たちは涙を流していたそうです。
ただ、劉禅だけは不思議と笑顔で、「洛陽の暮らしが楽しいので、蜀のことは思い出しません」と答えたといいます。司馬昭はこれを聞いて呆れました。
猜疑心の強い司馬氏を欺いたのか?
おそらく劉禅の素直な思いだったのでしょう。漢王朝の復興も、政治も戦争にもともと興味がなかったのかもしれません。だとしたら皇帝としてのプレッシャーから解放された安堵感が強かったはずです。ただし子孫や家臣のためにわざと暗愚を装った可能性も否めません。中途半端な芝居では数多くの政敵を葬ってきた司馬一族の目を欺くことは難しいでしょうから、徹底的に危険性のない人物を演じきったのかもしれないのです。
三国志ライターろひもとの独り言
劉禅は、母親が北斗七星を飲み込んで懐妊したという伝説から阿斗と呼ばれたほどです。自分の子孫や家臣を救うために己を殺して、暗愚を装い余生を過ごしたのであれば、やはり三国志の中で突出した英雄のひとりに数えられるのではないでしょうか。確かにその血脈は絶えることなく続いています。
65歳まで生きた劉禅。その最期にいったい何を思ったのでしょうか。憎むべき魏は、265年にすでに滅んでいます。司馬昭の子の司馬炎に禅譲したためです。司馬炎が建国した晋王朝は280年に呉を降伏させ、見事に天下を統一させました。呉の最後の皇帝である孫皓もまた劉禅同様に洛陽に移されています。劉禅の前例があったので、孫皓も潔く降伏できたわけです。そう考えてみると三国志の天下統一に大きな貢献をしているのが劉禅なのかもしれませんね。
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