【異聞】徐庶は劉備の人徳なんかどうでも良かった?


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劉備と徐庶

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)劉備(りゅうび)が初めて迎えた軍師、徐庶(じょしょ)

お話の中では、徐庶は劉備に仕える前、劉表(りゅうひょう)に仕えようとして会いに行っています。

しかし、これはおかしな話です。

現実的に考えて、徐庶が劉表に仕えようとするわけがありません。

劉表のところへ行ったって、冷や飯を食わされることが目に見えているからです。

 

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劉表って何者?

劉表

 

徐庶が荊州でブラブラしていた頃、劉表は荊州の長官でした。

劉表が長官に任命された当初、荊州では土着の勢力が跋扈(ばっこ)しており、

中央から派遣された長官がパッと任地にやってきて「今日から俺が親分だ。

みんな言うこと聞けよ」なんて言っても誰も言うこと聞くわけない状況でした。

 

正史三国志の注に引かれている『戦略』によれば、劉表は着任するにあたって

荊州の有力者である蒯良(かいりょう)蒯越(かいえつ)蔡瑁(さいぼう)を招いて相談し、蒯越のアドバイスに従って

土着の勢力の頭目を誘い出して皆殺しにし、配下の軍勢を手に入れたということです。

これによって、劉表は荊州での地盤を築くことができました。

 

劉表の統治下で荊州の政情は安定し、他州から避難民がやってきて人口が増え、栄えました。

劉表は自身が儒者であり学問に理解があったため、荊州では学問が栄えました。


荊州で徐庶がつるんでいた仲間たち

孔明

 

正史三国志の諸葛亮伝の注に引用されている『魏略(ぎりゃく)』によれば、

荊州での徐庶は諸葛亮(しょかつりょう)崔州平(さいしゅうへい)石鞱(せきとう)孟建(もうけん)と仲良しだったようです。

この仲良し五人組、志を持ち学問を修めていたにもかかわらず、

いずれも荊州では仕官していません。なぜでしょうか。

劉表によっぽど魅力がなくて、仕えるに足りず、と小馬鹿にしていたのでしょうか。

 

仕えるに足りず、と小馬鹿にしていたふしはあるかもしれませんが、

もし彼らがそう思っていたのだとしたら、それは自分たちが劉表政権に買ってもらえないから

負け惜しみでそう思うようにしただけなんじゃないかと、私は思います。

彼らはみんな、荊州ではさほど評価されていなかったからです。

(諸葛亮だけは姉の嫁ぎ先の義父である龐徳(ほうとく)公に評価されています)

司馬徽

 

人物鑑定家として知られる水鏡(すいきょう)先生こと司馬徽(しばき)は諸葛亮を評価していましたし、

徐庶は司馬徽の門下生でしたが、司馬徽のプッシュがあっても

荊州で要職につくことは難しかったでしょう。

司馬徽自身からして荊州ではハブにされていたからです。

 

史上最大の軍事衝突 帝政ローマvs三国志
帝政ローマvs三国志

 

徐庶の師の司馬徽は劉表政権からハブられていた

劉表

 

司馬徽は豫州潁川郡(よしゅうえいせんぐん)の出身です。

荊州で学問を教えていて優秀な門下生もおり有名でしたが、劉表には仕えていません。

同じ時期に司馬徽と並び称された学者の宋忠(そうちゅう)は荊州南陽の出身ですが、

彼は劉表の御用学者として『五経章句(ごきょうしょうく)』を編纂しています。

 

この両者の待遇の違いは、出身地によるものだろうと私は考えています。

よそ者の司馬徽は、荊州の名士である龐徳公に兄事して「水鏡」というニックネームを

つけてもらい、荊州で一定のステータスがありましたが、名声と学問だけでは、

よそ者としてのハンディキャップを克服するには足りなかったのです。

司馬徽と劉表

 

水鏡先生には劉表に仕えようという気がそもそもあったのかどうか謎ですが、

地元の名士と交際したりおおっぴらに門下生をとったりしていた態度からすると、

劉表が高く買うなら仕官してやろうという程度の気持ちはあったのではないでしょうか。

仕官しなかったのは、胸くそ悪い(?)蒯越たちの機嫌をとりながら下っ端役人になるよりは

在野でお高くとまっているほうがお得だという計算によるものでしょう。

 

よそ者でありながら宋忠と一緒に御用学者になった綦毋闓(きぼがい)という人の知名度が

司馬徽より格段に低いことを考えると、実際、在野で得したのかも。

蒯越の胸くそ悪い(?)感じが察せられる過去記事はこちら↓

 

【出身州別】三国志キャラの性格診断 第五回:荊州(けいしゅう)、揚州(ようしゅう)編


よそ者に優しくない劉表政権

蒯良、蒯越、蔡瑁

 

徐庶たちの出身地は下記の通りです。

 

徐庶:豫州潁川郡

石鞱:豫州潁川郡

孟建:豫州汝南郡

崔州平:冀州博陵郡(きしゅうはくりょうぐん)

諸葛亮:徐州琅邪郡(じょしゅうろうやぐん)

 

全員、荊州の出身ではありません。

みなさん優秀な方々だったんでしょうに、一人も劉表政権に採用されていないというのは、

劉表政権が外州人に優しくなかったことを物語っています。

劉表の政権は、発足当初から地元の有力者である蒯良、蒯越、蔡瑁たちに借りを作って

牛耳られていますから、よそ者が入り込むことは難しかったのでしょう。

蔡瑁

 

劉表の後継者を決める際、長幼の順を廃してまで蔡瑁の姪の夫である劉琮(りゅうそう)

後継者にしようとする動きがあり、実際そうなりましたから、劉表政権では

蔡瑁のような地元の有力者の力が相当強かったはずです。

 

過去記事「【kawausoミエル化計画】地味な劉表政権をミエルカしてみたよ!」の

劉表軍組織図を見ると、甘寧を除き、すべて荊州出身者か劉表の親族です。

甘寧(かんねい)は黄祖配下で高く買われないことに業を煮やして孫権(そんけん)のところへ出奔(しゅっぽん)しています。

 

 

徐庶の仲間たちのうち、諸葛亮はみんなとは若干立ち位置が違いました。

諸葛亮は叔父の諸葛玄が劉表と旧知の間柄で、荊州の人士と姻戚関係があり、

コネを利用して猛プッシュすればそこそこの役職がもらえたはずです。

しかし諸葛亮は「ボクは管仲(かんちゅう)楽毅(がっき)やねん」という志の持ち主だったので、

そこそこの役職じゃあつまんねえと思って仕官せずに、飛躍の機会を窺っていたのでしょう。


  

徐庶が劉備に仕えた本当の理由

劉備

 

冒頭に述べましたように、徐庶が劉表に仕えようとするわけがありません。

劉表のところへ行ったって、冷や飯を食わされることが目に見えているからです。

そこで目を付けたのが、流れ者の劉備です。

 

劉備は抜群の軍事的才能と実績を持ち、天下に知られたひとかどの人物で、

かつ、政治的にはまだ何者にも取り込まれていないという、

早い者勝ちで利用しほうだいの強力な兵器のような存在でした。

劉表政権に入り込めないなら、ひとつ劉備を利用して何か面白いことやってやろう。

ズバリこれが、徐庶が劉備に仕えた本当の理由でしょう!

 

三国志ライター よかミカンの独り言

よかミカンの独り言

 

このように考えると、徐庶は決して三国志演義に描かれているような

気の毒な人ではなかったことになります。

劉備の仁徳に惚れていたわけではなく、劉備の力を利用したかっただけ。

母親が曹操の捕虜になると、劉備よりも母親のほうを優先して曹操の軍門に降り、

魏でちゃっかり出世しています。

演義では人に翻弄されているイメージがありますが、現実には

主体的に選択をして生きた人だったのではないでしょうか。

 

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