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【あわれ趙雲】桃園義兄弟に入れないやむを得ない事情とは?

2018年6月23日


 

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正史三国志を執筆する陳寿

 

 

西晋時代に陳寿(ちんじゅ)によって編まれた正史『三国志』と明代に『三国志』に基づいて創り出された『三国志演義』とでは、全くの別人のように描かれている人物もチラホラ。

 

 

公孫瓚と劉虞

 

 

たとえば、公孫瓚(こうそんさん)は正史『三国志』その他当時残されていた文献資料では嫉妬に狂ってライバルともいえる劉虞(りゅうぐ)をケチョンケチョンにいたぶって殺した挙句、あることないことと吹いて回ったとんでもない極悪野郎とされているのに、『三国志演義』では劉備(りゅうび)と同じ師を仰ぐ、劉備にとってのよき兄のような存在として華麗に転身。

 

 

五虎大将軍の趙雲

 

実は、蜀漢を語る上で外せない、趙雲(ちょううん)も『三国志演義』で華麗なる大変身を遂げた人物の一人。正史『三国志』ではものすごくあっさりふんわりしていた彼も、『三国志演義』では盛りに盛られて目の覚めるような活躍ぶりをみせるナイスガイに。

 

京劇の趙雲

 

それにしても、こんなに持ち上げるならいっそ趙雲も桃園(とうえん)の誓いのメンツに入れちゃっても良かったんじゃないですか!?しかし、それが叶わなかったのには、色々と複雑な大人の事情があったようです…。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実は劉備より年上だったっぽい趙雲

趙雲にデレデレな劉備

 

冷静な判断で蜀軍を牽引し、白い馬にまたがって戦場を颯爽(さっそう)と駆け抜ける美しい若武者…。なんとなくそんなイメージが定着している趙雲。女性陣の心を鷲掴みにする彼ですが、実は、生没年不明の謎多き人物なのです。

 

お互いに歌を交わす趙雲と劉備

 

劉備が趙雲と出会ったときには、趙雲は公孫瓚の元で一隊を率いていたわけですから、劉備よりめちゃくちゃ年下ということは絶対になさそう…。いや、むしろやっぱりちょっと年上っぽい雰囲気…。しかし、趙雲を臣下に迎える前から趙雲にフランクに話しかけている劉備を見ると、趙雲って劉備と同い年か年下…?

 

 

関羽

 

 

さらに、『三国志演義』では劉備より1つ年下とされている関羽(かんう)が趙雲のことを弟みたいに言っていますから、やっぱり趙雲は劉備より年下かもしれません。ところが、桃園3兄弟亡き後の北伐で、鄧芝(とうし)に「70歳には見えない」と言われている趙雲。逆算してみると、やっぱり劉備より年上ということに…!趙雲は童顔だったのでしょうか…。あまりのことに鄧芝の台詞が間違っているとも言われているのだとか。

 

しかし、間違いではなかったとしたら…。他の3人と比べて一番年上の趙雲を桃園メンバーに入れてしまったら、主君であるはずの劉備が長兄を名乗ることができなくなってしまいます。この辺りの事情もあって趙雲は桃園兄弟に入れなかったのでしょう。

 

 

死する時は同じ!…ではなかった趙雲

桃園の誓いをする劉備、張飛、関羽

 

「我ら生まれし時は違えども、死する時は同じ!」そう言って兄弟の盃を酌み交わした劉備・関羽・張飛(ちょうひ)の3人。何とも美しい情景が浮かんできます。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

まず関羽が呉の呂蒙(りょもう)に捕まって先にあの世へ旅立ち、その後張飛が部下の裏切りに遭って後を追い、弔い合戦ともいえる夷陵(いりょう)の戦いの最中に心労がたたってか、劉備も病に臥して死去。おおむねその誓い通り、時を同じくして立て続けに亡くなった3人。3人が誓いを守ったからこそ、この3人の桃園の絆が強固なものとして読者に強く印象付けられるのです。

 

趙雲

 

一方、趙雲は3人が死んだ後も長く生き、生涯をかけて蜀に貢献し続けます。趙雲が亡くなったのは3人よりも大分後。そんな趙雲を桃園兄弟に入れてしまったら、「死す時は同じ!」という誓いの文句がかすんでしまいますよね。桃園で誓い合った言葉をただの口約束で終わらせないためにも、趙雲は桃園兄弟に入れてもらえなかったのでしょう。

 

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3人とテンションが違いすぎた

張飛

 

飛びぬけてテンションが高い張飛の突飛な言動は桃園3兄弟の中でも困ったちゃん扱いされていますが、他の2人もなんだかんだでテンションが高いです。劉備は一度決めたら頑として動かず、誰が何を言っても聞き入れないでもでもだってちゃんですし、関羽も人の話をあまり聞かず、煩わしく思った相手は青龍刀の(さび)にすればいいと思っている節があります。

 

パワーアップした関羽

 

 

そんな短所も可愛らしい3人に対し、趙雲にはこれといった短所が見当たりません。どんなときでもテンションが低めの彼は、ハチャメチャな3人の中ではキャラが立ちません。また、常に冷静沈着で非の打ち所の無い彼が桃園兄弟に加わると、他の3人の面目が丸つぶれになってしまうのですそういうわけで、趙雲は桃園兄弟に入れてはいけない人物なのです。

 

関羽

 

 

それでも他の2人に負けないくらい愛された趙雲

一緒に寝る劉備と趙雲

 

『三国志演義』で劉備・関羽・張飛と共に桃園で誓いを立てることは叶わなかった趙雲ですが、関羽や張飛に負けないくらい劉備に愛されていたとされています。何をするにもどこに行くにも常に一緒だったという劉備と趙雲。

 

劉備と趙雲の間には、ただあえて名前を冠されることが無かっただけで、桃園の誓いとはまた別のそれも桃園の誓いに負けないくらいの何かがあったことでしょう。

 

※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。

 

元記事:趙雲は何で桃園義兄弟ではないのか?

 

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趙雲

 

 

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